辨道話(12)

とうていはく、「この坐禅の行(ギョウ)は、いまだ仏法を証会(ショウエ)せざらんものは、坐禅辨道(ザゼンベンドウ)してその証をとるべし。すでに仏正法(ブツショウボウ)をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん。」

問うて言う、「この坐禅の行は、まだ仏法を悟っていない者は、坐禅修行して、その悟りを手に入れればよいでしょう。しかし、既に仏の正法を明らかにした人は、坐禅して何を待ち望むというのですか。」

しめしていはく、「痴人のまへにゆめをとかず、山子(サンス)の手には舟棹(シュウトウ)をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。

教えて言う、「痴人の前で夢を説いてはいけない、山の樵(キコリ)に舟と棹を与えても仕方がないと言いますが、更に教えましょう。

それ修証(シュショウ)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(ゲドウ)の見(ケン)なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり。

そもそも修行と悟りは別のもので、一つではないと思うのは、外道の考えです。仏法では、修行と悟りは同一なのです。この坐禅も悟りの上の修行なので、初心の修行は悟りの全体なのです。

かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指(ジキシ)の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。

ですから、修行の用心を授ける時にも、修行のほかに悟りを待つ思いを持ってはならないと教えるのです。修行は悟りを直ちに指し示すものだからです。既に修行そのものが悟りなので、悟りに終わりは無く、悟りは修行そのものなので、修行に始めは無いのです。

ここをもて、釈迦如来(シャカ ニョライ)、迦葉尊者(カショウ ソンジャ)、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師(ダルマ ダイシ)、大鑑高祖(ダイカン コウソ)、おなじく証上の修に引転(インデン)せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。

これによって、釈迦如来や迦葉尊者は、共に悟りの上の修行をされたのであり、達磨大師や大鑑高祖(六祖慧能)も、同じく悟りの上の修行をされたのです。仏祖の仏法護持の足跡は、皆このようであります。

すでに証(ショウ)をはなれぬ修(シュ)あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝(タンデン)せる、初心の辨道(ベンドウ)すなはち一分の本証を無為(ムイ)の地にうるなり。

既に悟りを離れない修行があるのです。我々は幸いにも、優れた修行の全体を伝えられているので、初心の修行は、悟りの全体を無為の地に得ることが出来るのです。

しるべし、修をはなれぬ証を染汚(ゼンナ)せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。

知ることです。修行を離れない悟りを汚さないために、仏祖はたびたび修行を緩くしてはならないと教えているのです。

妙修を放下(ホウゲ)すれば本証 手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。」

そのようにして、修行を手放せば悟りは手の中に満ち、悟りを抜け出れば修行は全身に行われるのです。」

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