辨道話(14)

とうていはく、「あるがいはく、生死(ショウジ)をなげくことなかれ、生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性(シンショウ)の常住(ジョウジュウ)なることわりをしるなり。

問うて言う、「ある人が言うには、生死流転を嘆くことはない。生死流転を離れるのに大層早い方法がある。いわゆる、心の本性は変わることなく常に存在するという道理を知ることだと。

そのむねたらく、この身体は、すでに生(ショウ)あればかならず滅(メツ)にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。

その道理とは、この身体は、まさしく生まれれば必ず滅して行くものであるが、この心の本性はまったく滅しない。

よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼(シシショウヒ)さだまりなし。心はこれ常住なり、去来現在(コライ ゲンザイ)かはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。

この生滅に動かされない心の本性が、我が身にあることを知れば、これを自分の本来の性とするので、身は仮の姿であり、ここに死して彼の所に生まれるという決まりはない。心は常に存在していて、過去 未来 現在に変わることはない。このように知ることを、生死流転を離れたと言うのである。

このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海(ショウカイ)にいる。性海に朝宗(チョウソウ)するとき、諸仏如来のごとく、妙徳まさにそなはる。

この道理を知る者は、今までの生死流転が長く絶えて、この身が終わる時には、本性の海に入る。その本性の海に集まる時には、諸仏如来のように優れた功徳がまさに具わるのである。

いまはたとひしるといへども、前世の妄業(モウゴウ)になされたる身体なるがゆゑに、諸聖(ショショウ)とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。

今は、たとえこれを知ったとしても、前世の妄業によって変えられた身体なので、聖人たちと同じではない。まだこの道理を知らない者は、長く生死を巡るであろう。

しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知(リョウチ)すべし。いたづらに閑坐(カンザ)して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん。かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかん。」

このようであるから、急いで心の本性の常住である道理を知りなさい。空しく坐禅して一生を過ごして、何の得るところがあろうかと。この言葉の道理は、実に仏や祖師方の道に叶っているであろうか。」

しめしていはく、「いまいふところの見(ケン)、またく仏法にあらず、先尼外道(センニ ゲドウ)が見なり。」

教えて言う、「今言うところの見解はまったく仏法ではありません。先尼という外道の見解です。」

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