辨道話(18)

とうていはく、「この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄(ゴンジョウ)すべしや。」

問うて言う、「この坐禅を専一に修行する人は、必ず戒律を厳守するべきでしょうか。」

しめしていはく、「持戒梵行(ジカイ ボンギョウ)は、すなはち禅門の規矩(キク)なり、仏祖の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず。」

教えて言う、「戒を保つ清浄行は禅門の規律であり、仏、祖師の家風です。しかし、まだ戒を受けていない者や戒を破った者は、修行することが出来ない訳ではありません。」

とうていはく、「この坐禅をつとめん人、さらに真言止観(シンゴン シカン)の行をかね修(シュ)せん、さまたげあるべからずや。」

問うて言う、「この坐禅に励む人が、さらに真言宗の行や天台宗の止観を兼ねて修行しても、妨げはないでしょうか。」

しめしていはく、「在唐(ザイトウ)のとき、宗師(シュウシ)に真訣(シンケツ)をききしちなみに、西天東地(サイテン トウチ)の古今(ココン)に、仏印(ブッチン)を正伝(ショウデン)せし諸祖、いづれもいまだしかのごときの行をかね修すときかずといひき。まことに、一事をこととせざれば一智に達することなし。」

教えて言う、「私が中国にいた時に、宗門の師に修行の秘訣を尋ねたところ、古今のインドや中国に於いて、仏の悟りを正しく伝えた祖師たちが、そのような行を兼ねて修行したという話は聞いていないと教えられました。実に一事に専念しなければ、一つの智慧には達しないのです。」

とうていはく、「この行は、在俗の男女(ナンニョ)もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか。」

問うて言う、「この坐禅の行は、在家の男女も励むことが出来ますか、それとも出家の人だけが修行するものですか。」

しめしていはく、「祖師のいはく、仏法を会(エ)すること、男女貴賤(ナンニョ キセン)をえらぶべからずときこゆ。」

教えて言う、「祖師は、仏法を会得することに、男女や貴賤を選んではならないと説いています。」

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