辨道話(23)

あきらかにしりぬ、自己即仏の領解(リョウゲ)をもて、仏法をしれりといふにはあらずといふことを。もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。

これによって明らかに知られることは、自己即仏(自己そのものが仏である)と理解することが、仏法を知ることではないということです。もし自己即仏(自己そのものが仏である)と理解することが仏法であれば、禅師は前の言葉で則公を導かず、又このように戒めることもなかったでしょう。

ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅辨道して、一知半解(イッチ ハンゲ)を心にとどむることなかれ。仏法の妙術、それむなしからじ。

ただまさに、良き師に会ったならば、最初に修行の規則を尋ねて、ひたすらに坐禅修行して、わずかな知識や理解をも心に留めてはいけません。仏法のこの優れた方法は、空しくはないのです。

といていはく、「乾唐(ケントウ)の古今(ココン)をきくに、あるいはたけのこゑをききて道をさとり、あるいははなのいろをみてこころをあきらむるものあり。

問うて言う、「インドや中国に於ける古今の先人の足跡を聞くと、ある人は竹の声を聞いて道を悟り、又、ある人は花の色を見て心を明らかにしています。

いはんや、釈迦大師は、明星(ミョウジョウ)をみしとき道を証し、阿難尊者(アナン ソンジャ)は、刹竿(セッカン)のたふれしところに法をあきらめし。

まして釈迦大師は、明星を見た時に道を悟り、阿難尊者は、説法の旗竿が倒れたところで法を明らかにしました。

のみならず、六代よりのち、五家のあひだに、一言半句のしたに心地をあきらむるものおほし。かれらかならずしも、かつて坐禅辨道せるもののみならんや。」

そればかりか、六代大鑑禅師から後の五家の中でも、わずかな言葉の下に心を明らかにした者は多い。彼らは必ずしも、以前に坐禅修行した者ばかりではないでしょう。」

しめしていはく、「古今に見色明心(ケンシキ ミョウシン)し、聞声悟道(モンショウ ゴドウ)せし当人、ともに辨道に擬議量(ギギリョウ)なく、直下(ジキゲ)に第二人(ダイニニン)なきことをしるべし。」

教えて言う、「古今に、花の色を見て心を明らかにしたり、竹の声を聞いて道を悟ったその人は、共に仏道精進に於いて是非を推し量る心がなく、直下に余人のないことを知りなさい。」

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