辨道話(26)

おほよそ我朝(ワガチョウ)は、龍海の以東にところして、雲煙はるかなれども、欽明(キンメイ) 用明(ヨウメイ)の前後より、秋方(シュウホウ)の仏法東漸(ブッポウ トウゼン)する、これすなはち人のさいはひなり。しかあるを、名相事縁(ミョウソウ ジエン)しげくみだれて、修行のところにわづらふ。

およそ我が国は、大海の東方に位置していて、釈尊のおられたインドから遙か遠い国ですが、欽明、用明天皇の前後から、西方の仏法が伝来したことは、人々の幸せでした。しかし、その仏法の教えと実践は多様で入り乱れ、修行に悩むところでした。

いまは破衣綴盂(ハエ テツウ)を生涯として、青巌白石(セイガン ハクセキ)のほとりに茅(ボウ)をむすんで、端坐修練(タンザ シュレン)するに、仏向上(ブッコウジョウ)の事たちまちにあらはれて、一生参学の大事すみやかに究竟(クキョウ)するものなり。

今は、破れ衣と粗末な鉢を生涯の友として、苔むす岩や白石のほとりに草庵を結んで、坐禅修練すれば、仏にもとらわれない悟りがすぐに現れて、一生に学ぶべき仏道の悟りを速やかに究めることが出来るのです。

これすなはち龍牙(リュウゲ)の誡勅(カイチョク)なり、鶏足(ケイソク)の遺風なり。その坐禅の儀則は、すぎぬる嘉禄(カロク)のころ撰集(センジュ)せし普勧坐禅儀(フカン ザゼンギ)に依行(エギョウ)すべし。

これは龍牙居遁禅師(リュウゲ コドン ゼンジ)の教えであり、鶏足山(ケイソクセン)に入られた摩訶迦葉尊者(マカ カショウ ソンジャ)が残された家風なのです。その坐禅の作法は、以前 嘉禄の年に私が編集した普勧坐禅儀に従ってください。

それ仏法を国中に弘通(グツウ)すること、王勅(オウチョク)をまつべしといへども、ふたたび霊山(リョウゼン)の遺嘱(イショク)をおもへば、いま百万億刹(ヒャクマンオクセツ)に現出せる王公相将(オウコウ ショウショウ)、みなともにかたじけなく仏勅(ブッチョク)をうけて、夙生(シュクショウ)に仏法を護持する素懐をわすれず、生来(ショウライ)せるものなり。

そもそも仏法を国中に広めるには、まず天皇のお許しを待ってするべきものですが、釈尊が霊鷲山で後世に大法を託されたことを思い返せば、今日 無数の国々に現れ出た国王、宰相、将軍などは、皆ありがたいことに、釈尊のお言葉を受けて、前世に於いて仏法を護持すると願ったことを忘れずに、この世に生まれてきた人々なのです。

その化(ケ)をしくさかひ、いづれのところか仏国土にあらざらん。このゆゑに、仏祖の道を流通(ルヅウ)せん、かならずしもところをえらび、縁をまつべきにあらず。ただ、けふをはじめとおもはんや。

その人々が治める地域は、どこであろうとも仏の国なのです。このために、仏祖の道を広めることは、必ずしも場所を選び、縁を待つべきではありません。ただ今日を始めの日と思うのです。

しかあればすなはち、これをあつめて、仏法をねがはん哲匠、あはせて道をとぶらひ雲遊萍寄(ウンユウ ヒョウキ)せん参学の真流(シンル)にのこす。

ですから、これらのことを集めて、仏法を求める優れた人や、仏道を尋ねて雲や浮草のように漂う真の修行者のために、これを書き残すのです。

ときに、寛喜(カンキ)辛卯(カノト ウ)中秋日 入宋伝法沙門道元記 辨道話

この時、寛喜三年(西暦1231年) 辛卯 八月十五日 中秋の日 入宋伝法沙門 道元記す。 辨道話。

辨道話おわり。

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