辨道話(5)

これらの等正覚(トウショウガク)、さらにかへりて したしく あひ冥資(ミョウシ)するみち かよふがゆえに、この坐禅人、確爾(カクジ)として身心脱落し、従来雑穢(ジュウライ ゾウエ)の知見思量を截断(セツダン)して、天真の仏法に証会(ショウエ)し、

これらの無上の悟りは、さらにその人に帰って、親しく互いに、密かに助ける道が通うために、この坐禅の人は確実に身心を脱落し、従来の雑多な見解や思量を断ち切って、天真の仏法を悟るのであり、

あまねく微塵際(ミジンサイ)そこばくの諸仏如来の道場ごとに仏事を助発(ジョホツ)し、ひろく仏向上(ブッコウジョウ)の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚(ゲキヨウ)す。

また微塵にまで広く行き渡る多くの諸仏の道場ごとに、仏の教化を助けて、仏をこえる働きに広く力を貸して、仏をこえる法を盛んにするのです。

このとき、十方法界の土地、草木、牆壁(ショウヘキ)、瓦礫(ガリャク)、みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水(フウスイ)の利益(リヤク)にあづかるともがら、みな甚妙(ジンミョウ)不可思議の仏化(ブッケ)に冥資(ミョウシ)せられて、ちかき さとりをあらはす。

この時、あらゆる世界の土地、草木、土塀、瓦礫も、 皆仏法を説き始めるので、それらの起こす風水の利益を受ける人々は、皆、甚だ優れた不思議な仏の教化に密かに助けられて、親しい悟りが現れるのです。

この水火(スイカ)を受用(ジュユウ)するたぐひ、みな本証の仏化(ブッケ)を周旋(シュウセン)するゆえに、これらの たぐひと共住(グジュウ)して同語するもの、また ことごとく あいたがひに無窮(ムキュウ)の仏徳(ブットク)そなはり、展転広作(テンデン コウサ)して、無尽、無間断(ムケンダン)、不可思議、不可称量(フカショウリョウ)の仏法を、遍法界(ヘンホッカイ)の内外(ナイゲ)に流通(ルヅウ)するものなり。

そして、この水火を使用する人々には、皆、本来悟りの中にあるという仏の教化が行き渡るのであり、これらの人々と共に住み共に語る者には、皆互いに限りない仏の功徳がそなわって、尽きることなく、絶えることもなく、考えることも計ることも出来ない仏法を、あらゆる世界の内外に広めていくのです。

しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏(コン)ぜざらしむることは、静中(ジョウチュウ)の無造作(ムゾウサ)にして直証(ジキショウ)なるをもてなり。

しかし、この悟りが坐禅の人々の当人の知覚にくらまされないわけは、坐禅が静中のはからいのない姿であり、それがそのまま悟りだからです。

もし、凡流(ボンル)の おもひのごとく、修証(シュショウ)を両段(リョウダン)にあらせば、おのおの あひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは証則(ショウソク)にあらず、証則には迷情およばざるがゆえに。

もし、凡人が思うように、修行と悟りが二つに分かれていれば、それぞれ互いに知ることが出来るはずです。もし知ることができれば、それは悟りの法ではありません。悟りの法には、迷いの心が及ばないからです。

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