辨道話(6)

又、心境ともに静中(ジョウチュウ)の証入、悟出あれども、自受用(ジジュユウ)の境界なるをもて、一塵(イチジン)をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙(ジンジン ミミョウ)の仏化(ブッケ)をなす。

また坐禅の時、心と環境は、共に寂静の中で悟りに入り、悟りを出る(悟りを忘れる)ということがありますが、自らが受用する世界なので、塵一つ動かさず、かたち一つ壊さずに、広大な仏の行事が、甚深微妙の仏の教化が行われるのです。

この化道(ケドウ)のおよぶところの草木、土地ともに大光明(ダイコウミョウ)をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。

この教化の及ぶ草木 土地は共に大光明を放ち、深妙の法を説いて尽きることがないのです。

草木牆壁(ソウモク ショウヘキ)はよく凡聖含霊(ボンショウ ガンレイ)のために宣揚(センヨウ)し、凡聖含霊はかへって草木牆壁のために演暢(エンチョウ)す。

草木 土塀は、凡夫や聖人、衆生のために広く法を説き、また凡夫、聖人、衆生は、かえって草木 土塀のために法を説くのです。

自覚(ジカク)、覚他(カクタ)の境界、もとより証相(ショウソウ)をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ。

この自ら悟り、他を悟らせる世界は、もとから悟りの相を欠けることなく具えていて、悟りの法が休みなく行われているのです。

ここをもて、わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥(ミョウ)し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去来現(コライゲン)に、常恒(ジョウゴウ)の仏化道事(ブッケ ドウジ)をなすなり。

このことによって、わずか一人の一時の坐禅であっても、すべてのものと互いに期せずして一致し、すべての時と円満に通じるので、広大無辺の世界の中で、過去 現在 未来にわたり、常に変わることのない仏の教化が行われるのです。

彼彼(ヒヒ)ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞(トウ)の前後に妙声綿綿(ミョウショウ メンメン)たるものなり。

誰もが共に平等の法を同じく修め、同じく悟るのです。これはただ坐上の修行だけのことではありません。空を打って響く声(自受用三眛)は、鐘を突く前後に妙声が綿綿として絶えないようなものです。

このきはのみにかぎらむや、百頭(ハクトウ)みな本面目(ホンメンモク)に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。

この坐の当座だけに限りません。すべての人が皆、本来の姿の中に本来の修行を具えていること計り知れません。

しるべし、たとひ十方無量恒河沙数(ジッポウ ムリョウ ゴウガシャスウ)の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧(ブッチエ)をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

知ることです。たとえ全世界の無数の諸仏が、共に力を励まして、仏の智慧で一人の坐禅の功徳を量り、知り尽くそうとしても、すべてを知ることは出来ないのです。

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