辨道話(8)

「又、読経 念仏等のつとめにうるところの功徳(クドク)を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬(ギ)するにうたたとほく、いよいよはるかなり。

「また読経や念仏などの勤めによって得られる功徳を、あなたは知っていますか。ただ舌を動かし声をあげることを仏事や功徳と思うのは、甚だ はかないことです。これを仏法と考えるなら、仏法からますます遠ざかってしまいます。

又、経書をひらくことは、ほとけ頓漸(トンゼン)修行の儀則(ギソク)ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。いたづらに思量念度(シリョウ ネンド)をつひやして、菩提(ボダイ)をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。

また経典を学ぶことは、釈尊が様々な修行の規則について教えておられることを、明らかに知るためであり、その教えのように修行すれば、必ず悟りが得られるということです。いたずらに思量を費やして、悟りを得る功徳にしようというのではありません。

おろかに千万誦(センマンジュ)の口業(クゴウ)をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれながえをきたにして、越(エツ)にむかはんとおもはんがごとし。又、円孔(エンク)に方木(ホウボク)をいれんとせんにおなじ。

愚かにも千遍万遍とむやみに口に称えて、仏道に行き着こうとするのは、まさに牛車のながえを北に向けて、南の越の国へ行こうとするようなものであり、また円い穴に四角い木を入れようとするのと同じです。

(モン)をみながら修(シュ)するみちにくらき、それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん。口声(クショウ)をひまなくせる、春の田のかへるの昼夜になくがごとし、つひに又益なし。

経文を読んでいながら修行する方法を知らないことは、医者が薬の調合を忘れたようなもので、何の利益がありましょうか。絶え間なく口に唱えることは、春の田の蛙が昼夜に鳴いているようなもので、結局利益は無いのです。

いはんやふかく名利(ミョウリ)にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし。それ利貪(リトン)のこころはなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからんや。もともあはれむべし。

まして深く名利に惑わされている者たちは、これらのことを捨てられません。それは名利を貪る心が甚だ深いからです。このような人は昔すでにいましたから、今の世にもいることでしょう。本当に哀れなことです。

ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心(トクドウ ミョウシン)の宗匠(シュウショウ)に、契心証会(カイシン ショウエ)の学人あひしたがうて正伝(ショウデン)すれば、的旨(テキシ)あらはれて稟持(ボンジ)せらるるなり、文字習学の法師のしりおよぶべきにあらず。

ただ正にこのように知りなさい。過去の七仏の妙法は、道を得て心を明らめた宗匠の下に、本心に適い悟りを開いた修行者が付き随って正しく伝えるので、確かな宗旨が現れて伝授されるのです。これは経文の文字を学ぶ法師の知り及ぶところではありません。

しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師(ショウシ)のをしへにより、坐禅辨道(ザゼン ベンドウ)して諸仏自受用三昧(ショブツ ジジュユウ ザンマイ)を証得(ショウトク)すべし。」

ですから、坐禅に対するこのような疑いを止めて、正しい師の教えにより、坐禅修行して、諸仏の自受用三昧を悟りなさい。」

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