仏性 (3)

(ぶっしょう)

仏性の言(ゴン)をききて、学者おほく先尼外道(センニ ゲドウ)の我(ガ)のごとく邪計(ジャケイ)せり。

しかし、仏性という言葉を聞いて、仏道を学ぶ者の多くは、先尼外道の説く我のように誤って理解するのです。

それ人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆへなり。

これは真実の人に会わず、真実の自己に会わず、真実の師に見えないからです。

いたづらに風火の動著(ドウジャク)する心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり。

そこで徒に、地水火風(万物の四大元素)の動揺する心意識を、仏性の物事を分別する智慧と思うのです。

たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。

一体誰が、仏性に物事を分別する智慧があると言ったでしょうか。目覚めた者、智慧ある者とは、たとえ諸仏のことを言うとしても、仏性は物事を分別する智慧ではありません。

いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云々(ウンヌン)の邪解(ジャゲ)を覚知とせず、

まして諸仏を目覚めた者、智慧ある者という場合の悟りの智慧は、お前たちが云々しているような誤った見解を悟りの智慧とするのではなく、

風火の動静(ドウジョウ)を覚知とするにあらず。ただ一両の仏面祖面(ブツメン ソメン)、これ覚知なり。

地水火風の動静する心を悟りの智慧とするのでもありません。ただそれぞれの仏祖の面目とするものが悟りの智慧なのです。

往往(オウオウ)に古老先徳(コロウ セントク)、あるいは西天(サイテン)に往還(オウカン)し、あるいは人天(ニンデン)を化道(ケドウ)する、漢唐(カントウ)より宋朝(ソウチョウ)にいたるまで、稲麻竹葦(トウマチクイ)のごとくなる、おほく風火の動著(ドウジャク)を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし。学道転疎(ガクドウ テンソ)なるによりて、いまの失誤あり。

昔の古老先徳でインドに往来した者、或は人間界天上界を教え導いた者は、唐より宋王朝に至るまで無数にありましたが、その多くは地水火風の動揺する心を仏性の悟りの智慧と思っていました。哀れなことです、仏道の学習が疎かなので、このような誤りを犯すのです。

いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。

今の仏道の晩学初心者は、そうあってはいけません。たとえ悟りの智慧を学んでも、悟りの智慧は地水火風の動揺する心ではないことを知りなさい。

たとひ動著を学習すとも、動著は恁麽(インモ)にあらざるなり。

たとえ地水火風の動揺する心を学んでも、その動揺する心は仏性ではないのです。

もし真箇(シンコ)の動著を会取(エシュ)することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。

もし本当の地水火風の動揺する心を会得するのなら、本当の悟りの智慧を会得するべきです。

仏性 (4)へ進む

仏性 (2)へ戻る

ホームへ