仏性 (4)

(ぶっしょう)

仏之与性(ブッシヨショウ)、達彼達此(タッピタッシ)なり。仏性かならず悉有(シツウ)なり、悉有は仏性なるがゆへに。

仏とその性は、あらゆる所に及んでいます。仏性は必ず一切に悉く有るのです。一切に悉く有るものは仏性だからです。

悉有は百雑砕(ヒャクザッスイ)にあらず、悉有は一条鉄(イチジョウテツ)にあらず。拈拳頭(ネンケントウ)なるがゆへに大小にあらず。

一切に悉く有るということは、仏性が無数に砕けているということではありません。又、仏性が一つの堅固ものとしてあるということでもありません。仏性は突き出した拳のようにとらえどころのないものなので、大きくも小さくもありません。

すでに仏性といふ、諸聖(ショショウ)と斉肩(セイケン)なるべからず、仏性と斉肩すべからず。

すでに仏性と呼ばれているのですから、多くの聖者と同等ではありませんし、仏性と並べてもいけません。

ある一類おもはく、
「仏性は草木
(ソウモク)の種子(シュウジ)のごとし、法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長(ゲキョウ ショウチョウ)し、枝葉花菓(シヨウ ケカ)もすことあり、果実さらに種子をはらめり。」

ある者たちが思うには、
「仏性とは草木の種子のようなものである。教えの雨がたびたび種子を潤せば、芽や茎が生長して枝葉や花実が茂り、その果実は更に種子を孕んでいる。」と。

かくのごとく見解(ケンゲ)する、凡夫の情量(ジョウリョウ)なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果(ケカ)、ともに条々の赤心(セキシン)なりと参究(サンキュウ)すべし。

このように考えることは、凡夫の思量と言うべきです。仮に仏性をこのように考えたとしても、この種子や花実は、共に一つ一つが汚れのない仏性であることを知りなさい。

果裏(カリ)に種子あり、種子みえざれども、根茎(コンキョウ)等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲(シジョウ ダイイ)となれる、内外(ナイゲ)の論にあらず、古今(ココン)の時に不空なり。

果実の中に種子があり、種子の中には見えないけれども根や茎などが生じます。そして集めた訳ではないけれども、多くの枝が大きな囲みとなっていくということは、仏性が内外ということなく、古今に及んでいるということなのです。

しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉、みな同生(ドウショウ)し同死(ドウシ)し、同悉有(ドウシツウ)なる仏性なるべし。

ですから、仮にこの凡夫の考えに任すとしても、根茎や枝葉は、皆 生を共にし、死を共にし、一切を共にする仏性なのです。

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