仏性 (5)

(ぶっしょう)

仏の言(ノタマ)はく、
「仏性の義を知らんと欲
(オモ)はば、当(マサ)に時節因縁を観ずべし。時節若(モ)し至れば、仏性現前(ブッショウ ゲンゼン)す。」

仏(釈尊)の言うことには、
「仏性(仏の本性)のことを知ろうと思うなら、一切の物事の生じる時節因縁を観察しなさい。物事の生じる時節が来れば、仏性は現れるのです。」と。

いま仏性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず。行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、 とかんむとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。

今の「仏性のことを知ろうと思うなら」という言葉は、ただ仏性を知ることだけではなく、それを行じようと思うなら、証明しようと思うなら、又、説こうと思うならとも、忘れようと思うならとも言っているのです。

かの説(セツ)(ギョウ)(ショウ)(モウ)(シャク) 不錯(フシャク)等も、しかしながら時節の因縁なり。 時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり。

その仏性を説くこと、行ずること、証すること、忘れること、磨くこと、磨かないことなども、要するに物事の時節因縁なのです。つまり、物事の時節因縁を観察するには、その物事の時節因縁によって観察するのです。

払子(ホッス) 拄杖(シュジョウ)等をもて相観(ソウカン)するなり。

例えば、払子(長い毛を束ねて柄を付けたもの)や拄杖(僧の用いる杖)などをもって互いに観察するのです。

さらに有漏智(ウロチ) 無漏智(ムロチ) 本覚(ホンガク) 始覚(シカク) 無覚(ムガク) 正覚(ショウガク)等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。

仏性は、決して世間的人間の智慧や聖人の解脱の智慧、本来具わる悟りの性、修行によって現れる悟りの性、情を持たない草木土石や仏菩薩の正しい悟りなどの智慧を働かせることでは観察できないのです。

当観(トウカン)といふは、能観所観(ノウカン ショカン)にかかはれず、正観(ショウカン) 邪観(ジャカン)等に準ずべきにあらず。これ当観なり。

釈尊の「観察しなさい」という言葉は、見るものと見られるものに関せず、正しい見方とか誤った見方などの考えにのっとるべきものではありません。これが釈尊の説く「観察しなさい」という言葉なのです。

当観なるがゆへに不自観(フジカン)なり、不他観(フタカン)なり。時節因縁ニイなり、超越(チョウオツ)因縁なり。仏性ニイなり、脱体(ダッタイ)仏性なり。仏仏ニイなり、性性ニイなり。

このような観察ですから、自らを観察するのでも、他を観察するのでもありません。物事の生じる時節因縁そのものなのです。因縁を飛び越えているのです。仏性そのものなのです。無自性で空なる仏性なのです。諸々の仏そのものなのです。諸々の仏性そのものなのです。

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