仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
仏道を学ぶとは、自己を学ぶことです。自己を学ぶには、自己を忘れることです。自己を忘れれば、すべての存在によって自己が明らかになるのです。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己(タコ)の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ゴセキ)の休歇(キュウカツ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出(チョウチョウシュツ)ならしむ。
すべての存在によって自己が明らかになれば、自己の身心と他者の身心という見が脱落するのです。更にその悟りの自覚を忘れるのです。悟りを忘れて日々に務めていくのです。
人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝(ショウデン)するとき、すみやかに本分人(ホンブンニン)なり。
人が初めて法を求める時には、自己以外に法を求めるので、遙かに法の辺りを離れています。しかし、その法がまさに自分自身に正しく伝えられた時には、すぐに本来成仏の人となるのです。
人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辨肯(ベンコウ)するには、自心自性(ジシン ジショウ)は常住(ジョウジュウ)なるかとあやまる。
人が舟に乗って行く時、岸に目を向ければ、岸が動いていると見誤りますが、目を親しく舟に向ければ、舟が進んでいることを知るように、身心を乱してすべてのものを弁別すれば、自分の心や本性は、変わることなく常に存在するものと誤認します。
もし行李(アンリ)をしたしくして箇裏(コリ)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。
しかし、もし日常の行いを親しく修めて、自己に目を向ければ、すべての存在は無我であるという道理が明らかになるでしょう。