道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

行持 下(1)

(ぎょうじ)

真丹初祖(シンタン ショソ)の西来東土(セイライ トウド)は、般若多羅尊者(ハンニャタラ ソンジャ)の教勅(キョウチョク)なり。航海三載(コウカイ サンサイ)の霜華(ソウカ)、その風雪いたましきのみならんや、雲煙(ウンエン)いくかさなりの嶮浪(ケンロウ)なりとかせん。

中国に正法を伝えた初祖 達磨大師が、西方インドから東地中国に来たのは、般若多羅尊者の教えによるものです。航海三年の春秋は、その風雪の痛ましきばかりでなく、雲霧の幾度も重なる危険な波浪の旅であったことでしょう。

不知のくににいらんとす、身命(シンミョウ)をおしまん凡類(ボンルイ)、おもひよるべからず。これひとへに伝法救迷情(デンポウ グメイジョウ)の大慈(ダイズ)よりなれる行持なるべし。

未知の国に入ろうとすることは、身命を惜しむ凡人には思いつかないことです。これはひたすら、法を伝えて人々の迷情を救おうという大慈悲から生まれた行ないなのです。

伝法の自己なるがゆゑにしかあり、伝法の遍界(ヘンカイ)なるがゆゑにしかあり。尽十方界(ジンジッポウカイ)は真実道なるがゆゑにしかあり、尽十方界自己なるがゆゑにしかあり、尽十方界、尽十方界なるがゆゑにしかあり。

法を伝える自己であるからやって来たのです。法を伝える全世界であるからやって来たのです。全ての世界は真実の道であるからやって来たのです。全ての世界は自己であるからやって来たのです。全ての世界はただ全ての世界であるからやって来たのです。

いづれの生縁(ショウエン)か王宮(オウグウ)にあらざらん、いづれの王宮か道場をさへん。このゆゑに、かくのごとく西来せり。

何処に生まれようとそこが王宮でないことがあろうか。何処の王宮が道場を妨げるものであろうか。この故に、大師はこのように西方インドからやって来たのです。

救迷情(グメイジョウ)の自己なるゆゑに驚疑(キョウギ)なく、怖畏(フイ)せず。救迷情の遍界なるゆゑに驚疑せず、怖畏なし。

人々の迷情を救う自己であるから、驚き疑わず、畏れず。人々の迷情を救う全世界であるから、驚き疑わず、畏れないのです。

ながく父王の国土を辞して、大舟(ダイシュウ)をよそほうて、南海をへて広州にとづく。使船(シセン)の人おほく、巾瓶(キンビョウ)の僧あまたありといゑども、史者失録(シシャ シツロク)せり。著岸(チャクガン)よりこのかた、しれる人なし。すなはち梁代(リョウダイ)の普通八年 丁未歳(ヒノト ヒツジノトシ)九月二十一日なり。

父王の国に長い別れを告げて、大船を整え、南海を経て広州に到着しました。同船の人は多く、大師に随う僧も多数いたのですが、それを歴史家は記録していません。着岸から後の事を知る人はいませんでした。それは梁の時代の普通八年(西暦527年)九月二十一日のことでした。

広州の刺史(シシ)蕭昂(ショウコウ)といふもの、主礼(シュレイ)をかざりて迎接(ゴウセツ)したてまつる。ちなみに、表を修して武帝にきこゆる、蕭昂が勤恪(キンカク)なり。

広州の長官で蕭昂という者が、達磨大師を君主の礼をもって迎えました。そこで上奏文を書いて武帝に申し上げました。蕭昂は恭しく熱心であったのです。

武帝すなはち奏を覧(ラン)して、欣悦(ゴンエツ)して、使(ツカイ)に詔(ショウ)をもたせて迎請(ゴウショウ)したてまつる。すなはちそのとし十月一日なり。

武帝は上奏書を見て喜び、使いの者に詔を持たせて大師を招きました。それは、その年の十月一日のことでした。

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