行持 下(22)

 大潙山(ダイイサン)大円禅師(ダイエン ゼンジ)は、百丈(ヒャクジョウ)の授記(ジュキ)より、直(ジキ)に潙山の峭絶(ショウゼツ)にゆきて、鳥獣為伍(チョウジュウ イゴ)して、結草修練(ケッソウ シュレン)す。風雪を辞労(ジロウ)することなし、橡栗充食(ショウリツ ジュウジキ)せり。

 大潙山 大円禅師(潙山霊祐)は、百丈(懐海)の法を受け継いでから、すぐに険しく聳える潙山に行き、鳥獣を友として草庵を結び修練しました。風雪の苦労も辞せず、とちの実や栗を食料にしました。

堂宇(ドウウ)なし、常住(ジョウジュウ)なし、しかあれども、行持の見成(ゲンジョウ)すること、四十年来なり。のちには海内(カイダイ)の名藍(メイラン)として、龍象蹴踏(リュウゾウ シュウトウ)するものなり。

大きな建物は無く、寺の備品も十分ではありませんでしたが、それでも行持が行われること四十年余りでした。後には天下の名刹として、優れた修行者たちが往来したのです。

梵刹(ボンセツ)の現成(ゲンジョウ)を願(ガン)せんにも、人情をめぐらすことなかれ、仏法の行持を堅固にすべきなり。修練ありて堂閣(ドウカク)なきは、古仏の道場なり。

寺院の建立を発願するにしても、人情を巡らすことなく、仏法の行持を堅固にするべきなのです。仏道の修練があって立派な建物が無いのは、昔の仏祖の道場です。

露地樹下(ロジ ジュゲ)の風、とほくきこゆ。この処在ながく結界となる。まさに一人の行持あれば、諸仏の道場につたはるなり。

仏祖の露地 樹下の家風は遠くまで聞こえて、この場所は長く聖域となるのです。このように、正に一人が修行すれば、それは諸仏の道場に伝わるのです。

末世の愚人、いたづらに堂閣の結構(ケッコウ)につかるることなかれ、仏祖いまだ堂閣をねがはず。自己の眼目(ガンモク)いまだあきらめず、いたづらに殿堂精藍(デンドウ ショウラン)を結構する、またく諸仏に仏宇(ブツウ)を供養せんとにはあらず、おのれが名利(ミョウリ)の窟宅(クッタク)とせんがためなり。

末法の世に生きる愚かな人間は、徒に立派な建物の建立のために疲労してはいけません。仏祖は立派な建物を願わなかったのです。自己の法の眼を明らかにしないで、徒に立派な寺院を建立しようとする者は、全く諸仏に仏の家を供養しようというのではなく、それを自分の名利の住み家にしようとしているのです。

潙山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり。おもひやるといふは、わがいま潙山にすめらんがごとくおもふべし。

潙山での当時の修行を、静かに思いやるべきです。思いやるとは、自分が今、潙山に住んでいるように想像することです。

深夜のあめの声、こけをうがつのみならんや、巌石(ガンセキ)の穿却(センキャク)するちからもあるべし。冬天(トウテン)のゆきの夜は、禽獣もまれなるべし、いはんや人煙(ジンエン)のわれをしるあらんや。

深夜の雨の声は、苔を穿つばかりでなく、岩石をえぐる力もあることでしょう。冬天の雪の夜は、禽獣も希なことでしょう。まして煙立つ人里に自分を知る人がありましょうか。

命をかろくし法をおもくする行持にあらずば、しかあるべからざる活計(カッケイ)なり。薙草(チソウ)すみやかならず、土木いとなまず、ただ行持修練し、辨道功夫(ベンドウ クフウ)あるのみなり。

これは、命を軽くして法を重んじる修行でなければ出来ない生活です。土地を切り開くための草刈りを急がず、土木を営むこともなく、ひたすら行持修練し精進するだけの日々でした。

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