行持 下(34)

又いはく、「参禅は身心脱落(シンジン ダツラク)なり、焼香 礼拝(ライハイ)念仏 修懺(シュサン)看経(カンキン)を用いず、 祗管(シカン)に坐して始めて得ん。」

又 言うことには、「参禅(坐禅)とは、身も心も脱落することである。それは焼香 礼拝 念仏 懺悔 読経を採用せず、ひたすらに坐して始めて得られるものである。」と。

まことにいま大宋国(ダイソウゴク)の諸方に、参禅に名字(ミョウジ)をかけ、祖宗の遠孫(オンソン)と称する皮袋(ヒタイ)、ただ一二百のみにあらず、稲麻竹葦(トウマ チクイ)なりとも、打坐(タザ)を打坐に勧誘するともがら、たえて風聞(フウブン)せざるなり。ただ四海五湖のあひだ、先師 天童(テンドウ)のみなり。

まことに今、大宋国の諸方には、参禅道場に名前を掛けて修行し、仏祖の宗旨を伝える法孫と称する者が、ただ百人二百人ばかりでなく、数えきれないほど居るのですが、坐禅を坐ることとして勧める人は、全く聞いたことがありません。それは広い中国の中で、先師 天童和尚だけでした。

諸方もおなじく天童をほむ、天童 諸方をほめず。又すべて天童をしらざる大刹(ダイセツ)の主もあり。これは中華にむまれたりといへども、禽獣の流類(ルルイ)ならん。参ずべきを参ぜず、いたずらに光陰(コウイン)を蹉過(サカ)するがゆゑに。

又、諸方の長老は、等しく天童和尚を褒めましたが、天童和尚は諸方の長老を褒めませんでした。又 少しも天童和尚を知らない大寺院の主もいました。これは中国に生まれたといっても、禽獣のような種類でありましょう。学ぶべきことを学ばずに、空しく月日を過ごしているからです。

あはれんべし、天童をしらざるやからは、胡説乱道(ウセツ ランドウ)をかまびすしくするを仏祖の家風と錯認(サクニン)せり。

哀れなことです。天童和尚を知らない者たちは、でたらめな説をやかましくすることが、仏祖の家風であると、思い違いをしているのです。

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