行持 下(6)

すでに古経(コキョウ)をしり、古書をよむがごときは、すなはち慕古(モコ)の意旨(イシ)あるなり。慕古のこころあれば、古経きたり現前(ゲンゼン)するなり。

既に、古経を知り、古書を読んでいるような人は、つまり古人を慕う志があるのです。古人を慕う心があれば、古経はやって来て目の前に現れるのです。

漢高祖および魏太祖(ギ タイソ)、これら天象(テンショウ)の偈(ゲ)をあきらめ、地形(チギョウ)の言(ゴン)をつたゑし帝者(テイシャ)なり。かくのごときの経典あきらむるとき、いささか三才あきらめきたるなり。

漢の高祖や魏の太祖などは、天文の説く偈文を明らかにし、地形の説く言葉を伝えた帝王です。このような経典を明らかにする時、ほんの少し天と地と人を明らかに出来るのです。

いまだかくのごとくの聖君(セイクン)の化(ケ)にあはざる百姓(ヒャクセイ)のともがらは、いかなるを事君(ジクン)とならひ、いかなるを事親(ジシン)とならふとしらざれば、君子(クンシ)としてもあはれむべきものなり、親族としてもあはれむべきなり。

まだこのような優れた君主の徳化に会わない多くの人民は、どうすることが君主に仕えることであり、どうすることが親に仕えることであるかを知らないので、臣下としても哀れなものであり、子としても哀れなものです。

(シン)となれるも子となれるも、尺璧(セキヘキ)もいたづらにすぎぬ、寸陰(スンイン)もいたづらにすぎぬるなり。

これでは臣下となっても子となっても、貴重な一尺の宝玉でさえ無用なものであり、大切な少しの時間も無駄に過ごしてしまいます。

かくのごとくなる家門にむまれて、国王のおもき職、なほさづくる人なし、かろき官位なほをしむ。にごれるときなほしかあり、すめらんときは見聞(ケンモン)もまれならん。

このような家門に生まれ育った人に、国の重職を授ける人はいませんし、軽い官位さえ惜しむことでしょう。世の濁った時でさえそうであり、世の澄んだ時には、めったに聞くことは無いでしょう。

かくのごときの辺地(ヘンチ)、かくのごときの卑賤(ヒセン)の身命(シンミョウ)をもちながら、あくまで如来の正法(ショウボウ)をきかんみちに、いかでかこの卑賤の身命ををしむこころあらん。

このような辺地日本で、このような卑賤の身を持ちながら、思う存分 如来の正法を聞く道に、どうしてこの卑賤の身を惜しむことがありましょうか。

をしむでのちに、なにもののためにかすてんとする。おもくかしこからん、なほ法のためにをしむべからず。いはんや卑賤の身命をや。

惜しんだ後に、この身を何のために捨てようというのでしょうか。身分の高い賢い人は、法のために身を惜しんではいけません。まして卑賤の身は尚更のことです。

たとひ卑賤なりといふとも、為道為法(イドウ イホウ)のところにをしまずすつることあらば、上天(ジョウテン)よりも貴(キ)なるべし、輪王(リンノウ)よりも貴なるべし。おほよそ、天神地祇(テンジン チギ)、三界衆生(サンガイ シュジョウ)よりも貴なるべし。

たとえ卑賤の身であっても、道のために法のために、身を惜しまず捨てるならば、天上の人よりも貴いことでしょう。世界を治める転輪王よりも貴いことでしょう。およそ天の神や地の神よりも、この世界の誰よりも貴いことでしょう。

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