行持 下(8)

しかあるに、祖師の遠孫と称(ショウ)するともがらも、楚国(ソコク)の至愚(シグ)にゑふて、玉石いまだわきまへず、経師論師も斉肩(セイケン)すべきとおもへり。少聞薄解(ショウモン ハクゲ)によりてしかあるなり。

それなのに、祖師 達磨の遠い法孫と名乗る者たちでさえ、楚国の愚人が玉に似た石を大切にして、玉と石の違いを正しく知らなかったように、経典や論書を講じる師も初祖と等しく肩を並べる人であろうと思っています。これは仏法を聞くこと少なく理解が浅いからです。

宿殖般若(シュクジキ ハンニャ)の正種(ショウシュ)なきやからは、祖道の遠孫とならず、いたづらに名相(ミョウソウ)の邪路に〇跰(レイヘイ)するもの、あはれむべし。

過去世に、正しい悟りの智慧の種を植えなかった者たちが、祖師の道の法孫とならずに、徒に教理を詮索する誤った道にさ迷う者となることは、哀れなことです。

梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それなにのためぞ。至愚のはなはだしきなり。悪業(アクゴウ)のひくによりて、他国に〇跰(レイヘイ)するなり。

達磨が来た梁の普通八年以降にも、依然として西方インドへ仏法を学びに行く者がありました。それは何のためでしょうか。甚だ愚かなことです。その者は自らの悪業に引かれて、他国をさ迷っているのです。

歩歩に謗法(ボウホウ)の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝(トウゼイ)す。なんだち西天にいたりてなんの所得かある、ただ山水に辛苦するのみなり。

その者は、一歩一歩、仏法を謗る悪い道に向かい、一歩一歩、父親の家郷から逃げているのです。あなた方はインドに行って、何か得る所があったでしょうか。ただ山水を渡る旅に苦労しただけでしょう。

西天の東来(トウライ)する宗旨を学せずば、仏法の東漸(トウゼン)をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。

インドの達磨大師が、東方の中国へ来たことの真意を学ばなければ、仏法が東方の国へ次第に伝わっていることが分からないので、徒にインドで道に迷うことになるのです。

仏法をもとむる名称ありといへども、仏法をもとむる道念なきによりて、西天にしても正師(ショウシ)にあはず、いたづらに論師経師にのみあへり。

仏法を求めるという名目があっても、仏法を求める道心がないので、インドでも正法の師に会わずに、徒に論書や経典を講じる師だけに会うのです。

そのゆゑは、正師は西天にも現在(ゲンザイ)せれども、正法をもとむる正心なきによりて、正法なんだちが手にいたらざるなり。

そのわけは、正法の師はインドにも現存するけれども、正法を求める道心がないので、正法はその者達の手に入らないのです。

西天にいたりて正師をみたるといふ、たれかその人、いまだきこえざるなり。もし正師にあはば、いくそばくの名称をも自称せん。なきによりて自称いまだあらず。

その証拠に、インドに行って正法の師に会ったという、誰かそういう人がいるとは、まだ聞いたことがありません。もし正法の師に会えば、数多くその名を自ら言うことでしょう。会っていないから自ら言わないのです。

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