行持 上(25)

古来(コライ)の仏祖いひきたれることあり、いはゆる、「若(モ)し人、生(イ)けらんこと百歳ならんに、諸仏の機(キ)を会(エ)せざらんは、未だ生けらんこと一日にして、能(ヨ)く之(コレ)を決了(ケツリョウ)せんには若(シ)かず。」

昔から仏祖が言って来たことがあります。それは、「もし人が百年生きたとしても、諸仏の働きを会得しなければ、一日の命でこれを会得した者には及ばない。」ということです。

これは一仏二仏のいふところにあらず、諸仏の道取(ドウシュ)しきたれるところなり。諸仏の行取(ギョウシュ)しきたれるところなり。

これは一人二人の仏の言葉ではありません。すべての仏が説いてきたことであり、すべての仏が行じてきたことなのです。

百千万劫(ヒャクセン マンゴウ)の回生回死(カイショウカイシ)のなかに、行持ある一日は、髻中(ケイチュウ)の明珠(ミョウジュ)なり、同生同死(ドウショウ ドウシ)の古鏡(コキョウ)なり、よろこぶべき一日なり。行持力みづからよろこばるるなり。

百千万劫の無限の時間にわたって生死をめぐり続ける中で、行持のある一日は、髻の中の宝石にも譬えられる本来の自己であり、また古い鏡にも譬えられる生死を共にする自己の仏性であり、喜ぶべき一日なのです。この行持の力によって自ら喜ばしくなるのです。

行持のちからいまだいたらず、仏祖の骨髄うけざるがごときは、仏祖の身心(シンジン)ををしまず、仏祖の面目(メンモク)をよろこばざるなり。

行持の力がまだ足りず、まだ仏祖の骨髄を受けていない者は、仏祖の身心を大切に思わず、仏祖の真実の姿を喜ぶことが出来ないのです。

仏祖の面目骨髄、これ不去(フコ)なり、如去(ニョコ)なり、如来(ニョライ)なり、不来(フライ)なりといへども、かならず一日の行持に稟受(ボンジュ)するなり。

仏祖のまことの姿 骨髄というものは、去ることもなく、来ることもなく、ただありのままの姿の中にあるとはいえ、それは必ず一日の行持によって受けることが出来るのです。

しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸(ケイガイ)なり。

ですから、この一日は大切なのです。徒に百年生きたならば、それは残念な月日であり、悲しい人身です。

たとひ百歳の日月は声色(ショウシキ)の奴婢(ヌヒ)と馳走(チソウ)すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生(タショウ)をも度取(ドシュ)すべきなり。

たとえ百年の月日を、万境の奴隷となって駆け回ったとしても、その中の一日の行持を我がものにすることが出来れば、一生の百年を我がものに出来るだけでなく、その百年の他生をも救うことが出来るのです。

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