行持 上(27)

このゆゑにしりぬ、古来の仏祖、いたづらに一日の功夫(クフウ)をつひやさざる儀(ギ)、よのつねに観想すべし。

このために知られることは、昔から仏や祖師が、一日の修行を無駄に費やさなかったことを、常日頃 思い返しなさいということです。

遅遅(チチ)たる華日(カジツ)も、明窓(メイソウ)に坐(ザ)しておもふべし。蕭蕭(ショウショウ)たる雨夜(ウヤ)も、白屋(ハクオク)に坐してわするることなかれ。

このことを、日の長いのどかな春にも、明るい窓辺に坐して思いなさい。物寂しい雨の夜にも、草庵に坐して忘れてはいけません。

光陰(コウイン)なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫(タゴウ)の功徳をぬすむ。光陰とわれと、なんの怨家(オンケ)ぞ。

月日はどうして私の修行を盗むのであろうか。一日の修行を盗むだけでなく、その永劫の功徳をも盗む。月日と私とは、何の怨みがあるというのだろうか。

うらむべし、わが不修(フシュ)のしかあらしむるなるべし。われ、われとしたしからず、われ、われをうらむるなり。

うらみに思うことは、それは自分が修行しないことの結果であろうということです。自分が自分と親しくないので、自分が自分をうらみに思うのです。

仏祖も恩愛なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。仏祖も諸縁なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。

仏祖も恩愛の情が無いわけではありません。しかしそれを投げ捨てて来たのです。仏祖も様々な世俗の縁が無いわけではありません。しかしそれらを投げ捨てて来たのです。

たとひをしむとも、自他の因縁をしまるべきにあらざるがゆゑに、われもし恩愛をなげすてずば、恩愛かへりてわれをなげすつべき云為(ウンイ)あるなり。

たとえそれらを惜しんでも、自他の因縁は惜しみ尽くせるものではないので、自分がもし恩愛を投げ捨てなければ、恩愛がかえって自分を投げ捨てるということがあるのです。

恩愛をあはれむべくは、恩愛をあはれむべし。恩愛をあはれむといふは、恩愛をなげすつるなり。

恩愛をいとおしむのなら、恩愛をいとおしみなさい。恩愛をいとおしむとは、恩愛を投げ捨てることなのです。

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