行持 上(29)

 香厳(キョウゲン)の智閑禅師(シカン ゼンジ)は、大潙(ダイイ)に耕道(コウドウ)せしとき、一句を道得(ドウトク)せんとするに、数番つひに道不得(ドウフトク)なり。

 香厳寺の智閑禅師は、大潙禅師(潙山霊祐)の下で修行していた時、大潙に生まれる前の自己を問われて、幾度も答えようとしましたが、遂に答えることが出来ませんでした。

これをかなしみて、書籍(ショジャク)を火にやきて、行粥飯僧(ギョウシュクハンソウ)となりて、年月を経歴(キョウリャク)しき。

智閑はこれを悲しんで、持てる書物を焼いて、粥飯を給仕する僧となって月日を送りました。

のちに武当山(ブトウザン)にいりて、大証の旧跡をたづねて、結草為庵(ケッソウ イアン)し、放下幽棲(ホウゲ ユウセイ)す。

後に武当山に入り、大証国師の旧跡を訪ねて草庵を結び、全てを捨てて静かに住んでいました。

一日わづかに道路を併浄(ヘイジョウ)するに、礫(カワラ)のほとばしりて、竹にあたりて声をなすによりて、忽然(コツネン)として悟道す。

ある日のこと、少し道路を掃き清めていると、小石が飛び散って竹に当たり、音を立てたことで、たちまち仏道を悟りました。

のちに香厳寺(キョウゲンジ)に住して、一盂一衲(イチウ イチノウ)を平生(ヘイゼイ)に不換(フカン)なり。奇巌清泉(キガン セイセン)をしめて、一生偃息(イッショウ エンソク)の幽棲(ユウセイ)とせり。行跡おほく本山にのこれり。平生に山をいでざりけるといふ。

智閑は、後に香厳寺に住んで、平生 一衣一鉢を換えない簡素な生活を送りました。山中の奇岩や清泉を場所として、一生安息の住み処としたのです。智閑禅師の行跡は、武当山に数多く残っています。禅師は平生、山を出ることはなかったといいます。

 臨済院 慧照大師(リンザイイン エショウ ダイシ)は、黄檗(オウバク)の嫡嗣(テキシ)なり。黄檗の会(エ)にありて三年なり。純一に辨道(ベンドウ)するに、睦州 陳尊宿(ボクシュウ チン ソンシュク)の教訓によりて、仏法の大意(タイイ)を黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫(キッ)す。

 臨済院の慧照大師(臨済義玄)は、黄檗(希運禅師)の法を嗣いだ人です。黄檗の道場にあって三年の間 純一に修行していた時に、睦州 陳尊宿(道明)の教えによって、三度 仏法の大意を黄檗に尋ね、重ねて六十棒を受けました。

なほ励志(レイシ)たゆむことなし。大愚(タイグ)にいたりて大悟することも、すなはち黄檗、睦州 両尊宿(リョウ ソンシュク)の教訓なり。

それでもなお求道の志は弛むことがありませんでした。大愚和尚(高安大愚)の所に行って大悟したことも、黄檗禅師と睦州和尚の二人の教えによるものです。

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