行持 上(31)

黄檗(オウバク)のむかしは、捨衆(シャシュ)して大安精舎(ダイアン ショウジャ)の労侶(ロウリョ)に混迹(コンセキ)して、殿堂(デンドウ)を掃灑(ソウサイ)する行持あり。

黄檗(希運)禅師は昔、道場の僧衆を捨てて大安寺の労働の仲間にまじり、伽藍を掃き清める行持がありました。

仏殿(ブツデン)を掃灑し、法堂(ハットウ)を掃灑す。心を掃灑すると行持をまたず、ひかりを掃灑すると行持をまたず。裴 相国(ハイ ショウコク)と相見(ショウケン)せし、この時節なり。

仏殿を掃き清め、法堂を掃き清めたのです。それは心を掃き清めるための行持でも、仏の光を掃き清めるための行持でもありませんでした。宰相の裴 相国と出会ったのも、この頃でした。

 唐 宣宗(センソウ)皇帝は、憲宗(ケンソウ)皇帝第二の子なり。少而(ショウニ)より敏黠(ビンカツ)なり。よのつねに結跏趺坐(ケッカ フザ)を愛す、宮にありてつねに坐禅す。

 唐の宣宗皇帝は、憲宗皇帝の第二子で、幼少の頃から聡明でした。宣宗は、平生に結跏趺坐を好み、宮殿の中で常に坐禅をしていました。

穆宗(ボクソウ)は宣宗の兄なり。穆宗在位のとき、早朝罷(ソウチョウハ)に、宣宗すなはち戯而(ケニ)して、龍牀(リュウショウ)にのぼりて揖群臣勢(ユウグン シンセイ)をなす。大臣これをみて、心風(シンプウ)なりとす。すなはち穆宗に奏(ソウ)す。

穆宗は宣宗の兄にあたります。穆宗が天子の位にあったある日、早朝の政務が終わると、宣宗は冗談で天子の座に上って群臣に挨拶しました。大臣はこれを見て少し気が狂ったようだ言って、穆宗に奏上しました。

穆宗みて、宣宗を撫而(ブニ)していはく、「我が弟は乃(スナハ)ち吾が宗(ソウ)(ノ)英冑(エイチュウ)(ナリ)。」 ときに宣宗、としはじめて十三なり。

穆宗はそれを見て、宣宗を撫でで言うには、「私の弟は、我々一族の優れた跡継ぎである。」と。この時宣宗は、十三歳になったばかりでした。

穆宗は長慶四年晏駕(アンガ)あり。穆宗に三子あり。いはゆる、一は敬宗(ケイソウ)、二は文宗(ブンソウ)、三は武宗(ブソウ)なり。

穆宗は長慶四年に亡くなりました。穆宗には三人の息子がいました。長男は敬宗、次男は文宗、三男は武宗です。

敬宗父位をつぎて三年に崩(ホウ)ず。文宗継位するに一年といふに、内臣謀而(ダイシン ボウニ)、これを易(エキ)す。

敬宗は、父の位を継いで三年で亡くなりました。そこで文宗が後を継ぎましたが、一年ほどで臣下が謀って退位させました。

武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、をひのくににあり。武宗つねに宣宗をよぶに癡叔(チシュク)といふ。武宗は会昌(カイショウ)の天子(テンシ)なり、仏法を廃(ハイ)せし人なり。

そして武宗が即位しましたが、宣宗は未だ即位せずに、甥である武宗の国にいました。武宗はいつも、宣宗をばか叔父と呼んでいました。武宗は唐の会昌年間の天子で、仏法を迫害した人です。

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