行持 上(8)

六祖は新州の樵夫(ショウフ)なり、有識(ウシキ)と称(ショウ)しがたし。いとけなくして父を喪(ソウ)す、老母に養育せられて長(チョウ)ぜり。

中国の六祖、大鑑慧能禅師(ダイカン エノウゼンジ)は、もと新州の樵(キコリ)であり、学問があるとは言えません。彼は幼くして父を喪い、老母に養育されて成長しました。

樵夫の業(ゴウ)を養母の活計とす。十字の街頭にして一句の聞経(モンキョウ)よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。

そして樵の業で母を養い生計を立てていました。ある日、街頭の十字路で経文の一句を聞いてから、にわかに老母を捨てて大法を探し求めました。

これ奇代(キダイ)の大器なり、抜群の辨道(ベンドウ)なり。断臂(ダンピ)たとひ容易なりともこの割愛(カツアイ)は大難なるべし、この棄恩(キオン)はかろかるべからず。

この人は世にまれな大器であり、抜群の求道者でした。慧可が法のために臂を断つことは、、たとえ容易であったとしても、この情愛を断ち切ることは大変困難です。この恩愛を棄てる行いは、決して軽いものではありません。

黄梅(オウバイ)の会(エ)に投(トウ)じて、八箇月ねぶらずやすまず、昼夜に米をつく。夜半に衣鉢(エハツ)を正伝(ショウデン)す。

彼は、黄梅山 大満弘忍禅師(ダイマン コウニンゼンジ)の道場に入って、八か月 眠らず休まず昼夜に米をつきました。そして、弘忍禅師から夜半に衣鉢を譲り受け、正法を受け継いだのです。

得法已後(トクホウ イゴ)、なほ石臼(イシウス)をおひありきて、米をつくこと八年なり。出世度人説法(シュッセ ドニン セッポウ)するにも、この石臼をさしおかず、希世(キセイ)の行持なり。

彼は大法を得た後も、なお石臼を背負って米をつくこと八年でした。世に出て人々に説法する時にも、この石臼を離さず、世にも希な修行をされた方でした。

江西(コウゼイ)馬祖(バソ)の坐禅することは二十年なり。これ南嶽(ナンガク)の密印を稟受(ボンジュ)するなり。

江西の馬祖道一禅師(バソ ドウイツゼンジ)は、坐禅すること二十年でした。この人は南嶽懐譲禅師(ナンガク エジョウゼンジ)から悟りを証明されて大法を受け継いだ人です。

伝法済人(デンポウ サイニン)のとき、坐禅をさしおくと道取(ドウシュ)せず。参学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。

彼は、人々に法を伝えて導く時にも、坐禅を疎かにはしませんでした。仏道を学ぶ者が始めて来た時には、必ず仏心の印である坐禅を親しく授けました。

普請作務(フシン サム)のところに、かならず先赴(センプ)す。老にいたりて懈惓(ケゲン)せず。いまの臨済(リンザイ)は江西の流(リュウ)なり。

皆で労働する時には、必ず先に立って働き、老年になっても怠ることはありませんでした。今の臨済宗は、この江西(コウゼイ)の門流です。

雲巌和尚(ウンガン オショウ)と道吾(ドウゴ)と、おなじく薬山(ヤクサン)に参学して、ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味(イチミ)参究す。法を洞山(トウザン)の悟本大師(ゴホン ダイシ)に伝付(デンプ)す。

雲巌曇晟(ウンガン ドンジョウ)和尚と道吾円智(ドウゴ エンチ)和尚は、同じく薬山惟厳(ヤクサン イゲン)禅師に学んだ人であり、共に誓いを立てて四十年 身を横たえず、純一に修行しました。そして法を洞山の悟本大師に伝えました。

洞山いはく、「われ一片に打成(タジョウ)せんと欲して、坐禅辨道すること已(スデ)に二十年なり。」 いまその道、あまねく伝付せり。

その洞山大師が言うことには、「私は、一つに成りきろうとして、坐禅修行すること既に二十年である。」 と。今、その洞山の仏道は、世に広く伝えられています。

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