行持 上(9)

雲居山(ウンゴザン)弘覚大師(コウガク ダイシ)、そのかみ三峰庵(サンポウアン)に住せしとき、天厨(テンチュウ)送食(ソウジキ)す。大師あるとき洞山(トウザン)に参じて、大道を決擇(ケッチャク)してさらに庵にかへる。

雲居山の弘覚大師(雲居道膺禅師)が、以前、三峰庵に住んでいた時、天界の料理人が食事を送っていました。大師はある時、洞山(洞山良价禅師)に見えて、大道を悟って再び庵に帰りました。

天使また食(ジキ)を再送して師を尋見(ジンケン)するに、三日を経て師をみることをえず、天厨をまつことなし。大道を所宗(ショシュウ)とす、辨肯(ベンコウ)の志気(シイキ)、おもひやるべし。

そこで、天人は又食事を送って師を尋ねたのですが、三日たっても師に会うことが出来ませんでした。師は天界の給仕を必要としなくなったのです。師の大道を尊ぶ固い志に思いをはせなさい。

百丈山(ヒャクジョウザン)大智禅師(ダイチ ゼンジ)、そのかみ馬祖(バソ)の侍者(ジシャ)とありしより、入寂(ニュウジャク)のゆふべにいたるまで、一日も為衆為人(イシュ イニン)の勤仕(ゴンジ)なき日あらず。

百丈山の大智禅師(百丈懐海禅師)は、以前、馬祖(馬祖道一禅師)の侍者を務めていた時から、亡くなる日の夕べに至るまで、一日たりとも修行者のために務めない日はありませんでした。

かたじけなく、一日不作(イチニチ フサ)一日不食(イチニチ フジキ)のあとをのこすといふは、百丈禅師、すでに年老臘高(ネンロウ ロウコウ)なり。

かたじけないことに、「一日なさざれば、一日食らわず」という足跡を残したのは、百丈禅師がすでに長年修行を積み重ね、年老いてからのことです。

なほ普請作務(フシン サム)のところに、壮齢(ソウレイ)とおなじく励力(レイリキ)す。衆これをいたむ、人これをあはれむ、師やまざるなり。つひに作務のとき、作務の具をかくして、師にあたへざりしかば、師、その日一日不食なり。

師は老いても尚、皆で労働する時には、若い僧と同じように励まれたのです。修行僧はこれに心を痛め、人はこれを気の毒に思いましたが、師は止めようとしませんでした。そこで、とうとう労働の道具を隠して師に与えないようにすると、師はその日一日食事をしなかったのです。

衆の作務にくははらざることをうらむる意旨(イシ)なり。これを百丈の、一日不作一日不食のあとといふ。

それは、修行僧の労働に加わらなかったことを残念に思っての事でした。これを百丈禅師の「一日なさざれば一日食らわず。」の足跡と言います。

いま大宋国に流伝(ルデン)せる臨済(リンザイ)の玄風(ゲンプウ)、ならびに諸方の叢林(ソウリン)、おほく百丈の玄風を行持するなり。

今、大宋国に広まっている臨済の宗風や、各地の禅道場では、その多くが百丈禅師の宗風を受け継いでいるのです。

鏡清和尚(キョウセイ オショウ) 住院(ジュウイン)のとき、土地神(ドジジン)かつて師顔(シガン)をみることえず。たよりをえざるによりてなり。

鏡清和尚が寺院に住持している時、そこの土地神は全く師に会うことが出来ませんでした。修行に隙がなく消息を得られなかったからです。

三平山(サンペイザン)義忠禅師(ギチュウ ゼンジ)、そのかみ天厨送食す。大顚(ダイテン)をみてのちに、天神(テンジン)また師をもとむるに、みることあたはず。

三平山の義忠禅師は、以前 天界の料理人が食事を送っていました。しかし、師が大顚(大顚宝通和尚)に会ってからは、天神が師を探しても会うことは出来ませんでした。

行持 上(8)へ戻る

行持 上(10)へ進む

ホームへ