八大人覚(2)

(はち だいにんがく)

  三つには楽寂静(ギョウ ジャクジョウ)。諸(モロモロ)の憒閙(カイニョウ)を離れて、空間(クウゲン)に独処するを、楽寂静と名づく。

  第三は、楽寂静(煩悩を滅ぼした涅槃の寂静を願うこと)である。すべての騒がしい環境を離れ、静かな場所に一人住むことを楽寂静という。

  仏の言(ノタマ)はく、
「汝等比丘
(ナンダチ ビク)、寂静無為(ジャクジョウ ムイ)の安楽(アンラク)を求めんと欲(ホッ)せば、当(マサ)に憒閙(カイニョウ)を離れて独処に間居(ゲンゴ)すべし。

  仏(釈尊)の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、煩悩を滅ぼした涅槃の安楽を求めるのなら、騒がしい環境を離れて一人で閑居しなさい。

静処(ジョウショ)の人は、帝釈諸天(タイシャク ショテン)の共に敬重(キョウジュウ)する所なり。是の故に、当に己衆他衆(コシュ タシュ)を捨てて、空間に独処し、苦本(クホン)を滅せんことを思うべし。 

静かな所に住む人は、天界の帝釈天や天神たちに敬い重んぜられるのである。だから自分に関わる人々や他の人々を捨てて、静かな場所に一人住んで、苦の本を滅ぼそうと思いなさい。

(モ)し衆(シュ)を楽(ネガ)ふ者は、則(スナハ)ち衆悩(シュノウ)を受く。譬(タト)へば大樹の衆鳥(シュチョウ)(コレ)に集まれば、則ち枯折(コセツ)の患(ウレ)ひ有るが如し。

もし多くの人々を好んで求めれば、多くの悩み患いを受けることだろう。例えば大樹に多くの鳥が集まれば、枯れたり折れたりする心配があるようなものである。

世間の縛著(バクジャク)は衆苦(シュク)に没す。譬へば老象の泥(デイ)に溺(オボ)れて、自ら出づること能(アタ)はざるが如し。是れを遠離(オンリ)と名づく。」

人々は、世間の束縛によって多くの苦に沈んでいる。例えば老像が泥に溺れて、自ら出ることが出来ないようなものである。このように静かな場所に住むことを遠離という。」

  四つには勤精進(ゴン ショウジン)。諸の善法に於て、勤修(ゴンシュ)すること無間(ムゲン)なり、故に精進と云(イ)ふ。精(ショウ)にして雑(ゾウ)ならず、進んで退かず。

  第四は、勤精進(勤め精進すること)である。多くの善法を休みなく勤め修めるのである。それで精進という。精細にして雑にせず、前進して退かないのである。

  仏の言(ノタマ)はく、
「汝等比丘、若
(モ)し勤精進せば、則ち事として難き者無し。是の故に汝等、当(マサ)に勤精進すべし。譬(タト)へば少水の常に流るれば、則ち能(ヨ)く石を穿(ウガ)つが如し。 

  仏の言うことには、
「比丘たちよ、もし勤めて精進すれば、解脱を得る事に難しい人はいない。だからお前たちは、勤めて精進しなさい。例えば、少しの水でも常に流れていれば、よく石を穿つようなものである。

若し行者(ギョウジャ)の心、数数(シバシバ)懈廃(ゲハイ)すれば、譬へば火を鑽(キ)るに、未だ熱からずして而(シカ)も息(ヤ)めば、火を得んと欲(ホッ)すと雖(イヘド)も、火を得べきこと難きが如し。是れを精進と名づく。」

しかし、もし修行者の心がしばしば怠けるようであれば、例えば錐もみして火を起こす時に、まだ熱くならないうちに手を休めれば、火を起こそうと思っていても、火を起こすことが難しいようなものである。これを精進という。」

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