八大人覚(4)

(はち だいにんがく)

  七つには修智慧(シュチエ)。聞思修証(モンシシュショウ)を起こすを、智慧と為(ナ)す。

  第七は修智慧(解脱の智慧を修めること)である。仏の教えを聞いて、それを思惟して、修行して得た悟りを智慧という。

  仏の言(ノタマ)はく、
「汝等比丘
(ナンダチ ビク)、若(モ)し智慧有れば、則(スナハ)ち貪著(トンジャク)無し。 常に自ら省察(ショウサツ)して、失有らしめざれ。是(コ)れ則ち我が法の中に於て、能(ヨ)く解脱(ゲダツ)を得ん。

  仏(釈尊)の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、もし解脱の智慧があれば、貪り執著は無くなるのである。だから、常に自らを省みて、貪り執著のあやまちを犯さないようにしなさい。これが、我が法の中で煩悩の解脱を得る方法である。

(モ)し爾(シカ)らざれば、既に道人(ドウニン)に非ず。又 白衣(ビャクエ)に非ず。名づくる所無し。実智慧(ジッチエ)は、則ち是れ老病死海を度(ワタ)る堅牢(ケンロウ)の船なり。 

比丘にもし解脱の智慧がなければ、それは出家の人でも、また在家の人でもない。名づけようのない人である。まことの解脱の智慧は、老病死の苦海を渡るための堅固な船である。

(マ)た是れ無明黒闇(ムミョウ コクアン)の大明燈(ダイミョウトウ)なり、一切病者の良薬なり、煩悩(ボンノウ)の樹を伐(キ)る利斧(リフ)なり。是の故に汝等(ナンダチ)、当(マサ)に聞思修(モンシシュ)の慧を以て、而(シカ)も自ら増益(ゾウヤク)すべし。 

また真理の法に暗い者を照らす大燈明であり、すべての病人の良薬であり、煩悩の樹を伐る鋭い斧である。だからお前たちは、教えを聞いて、思惟して、修行して得た解脱の智慧で、自らを益々利益しなさい。

若し人智慧の照あれば、是れ肉眼(ニクゲン)なりと雖(イヘド)も、而も是れ明見(ミョウケン)の人なり。是れを智慧と名づく。」

もし人に解脱の智慧の眼があれば、それは肉眼であっても法の眼を具えた人である。これを智慧という。」

  八つには不戯論(フケロン)。証して分別(フンベツ)を離るを、不戯論と名づく。実相を究尽(グウジン)す、乃(スナハ)ち不戯論なり。 

  第八には不戯論(無益な議論をしないこと)である。仏の教えを悟って、妄想分別を離れることを不戯論という。つまり、真実の法を究めることが不戯論である。

  仏の言(ノタマ)はく、
「汝等比丘、若し種々の戯論
(ケロン)は、其(ソ)の心 則(スナハ)ち乱る。復(マ)た出家(シュッケ)すと雖も、猶(ナ)ほ未だ得脱(トクダツ)せず。是の故に比丘(ビク)、当に急ぎ乱心戯論を捨離(シャリ)すべし。

  仏の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、もしいろいろ無益な議論をすれば、心は乱れるものである。またお前たちは、出家したけれども、まだ解脱を得ていない。だから比丘は、すぐに心を乱す無益な議論を捨てなさい。

(ナンジ)若し寂滅の楽を得んと欲(ホッ)せば、唯(タ)だ当に善く戯論の患(トガ)を滅すべし。是れを不戯論と名づく。」

お前たちが、もし寂滅(煩悩を滅ぼした涅槃)の楽を得ようと思うなら、ただ無益な議論のとがを滅ぼしなさい。これを不戯論という。」

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