道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

発菩提心(1)

(ほつぼだいしん)

おほよそ、心三種あり。
一つには質多心
(シッタシン)、此の方に慮知心と称す。
二つには汗栗多心
(カリタシン)、此の方に草木心と称す。
三つには矣栗多心
(イリタシン)、此の方に積聚精要心(シャクジュウ セイヨウシン)と称す。

およそ心には三種類がある。
一には質多心、こちら(中国)では慮知心(考え知る心)という。
二には汗栗多心、こちら(中国)では草木心(情を持たない心)という。
三には矣栗多心、こちら(中国)では積聚精要心(諸経の要旨を一つに集めている心)という。

このなかに、菩提心(ボダイシン)をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。菩提は天竺(テンジク)の音(オン)、ここには道(ドウ)といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。

この心の中で、菩提心を起こすには、必ず慮知心(考え知る心)を用いる。菩提とはインドの発音言葉で、ここ(中国)では道と訳す。質多とはインドの発音言葉で、ここ(中国)では慮知心と訳す。

この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。

この慮知心(考え知る心)でなければ、菩提心を起こすことは出来ません。しかし、この慮知心を菩提心と言うのではありません。この慮知心によって菩提心を起こすのです。

菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生(イッサイ シュジョウ)をわたさんと発願(ホツガン)し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。

菩提心を起こすとは、自分自身が悟りの浄土へ渡る前に、すべての人々を悟りの浄土へ渡そうと発願し営むことです。その姿がみすぼらしくても、この心を起こせば、まさしく一切衆生の導師なのです。

この心、もとよりあるにあらず、いまあらたに欻起(クツキ)するにあらず、一にあらず、多にあらず、自然(ジネン)にあらず、凝然(ギョウネン)にあらず、わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。

この心は、以前からあるものでも、今新しくにわかに起こるものでもありません。一つでもなく、多いのでもなく、自然に起こるものでも、凝り固まったものでもありません。我が身の中にあるのでもなく、我が身はこの心の中にあるのでもありません。

この心は、法界(ホッカイ)に周遍(シュウヘン)せるにあらず、前(ゼン)にあらず、後(ゴ)にあらず、あるにあらず、なきにあらず、自性(ジショウ)にあらず、他性(タショウ)にあらず、共性(グウショウ)にあらず、無因性(ムインショウ)にあらず。

又この心は、すべての世界に広く行き渡っているわけではありません。目の前にあるのでも後ろにあるのでもなく、有るのでも無いのでもなく、自らの本性でも他の本性でもなく、自他共通の性でもありません。また原因が無くて生じるものでもありません。

しかあれども、感応道交(カンノウドウコウ)するところに、発菩提心(ホツボダイシン)するなり。諸仏菩薩の所授(ショジュ)にあらず、みづからが所能(ショノウ)にあらず、感応道交するに発心(ホッシン)するゆゑに、自然(ジネン)にあらず。

しかしこの菩提心は、人々の心と仏菩薩の心とが、相通じることによって起こるのです。ですから、仏菩薩たちが授けるものではないし、人々が自ら起こすことの出来るものでもないのです。ただ人々と仏菩薩の心とが相通じることで菩提心は起こるもので、自然に起こるものではないのです。

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