発菩提心(7)

(ほつぼだいしん)

禅苑清規(ゼンネン シンギ) 一百二十問に云(イハ)く、「菩提心を発悟(ホツゴ)せりや否や。」
あきらかにしるべし、仏祖の学道、かならず菩提心を発悟するをさきとせりといふこと、これすなはち仏祖の常法なり。

禅苑清規(禅道場の規則)の一百二十問には、「菩提心を発悟しているであろうか。」とあります。
この言葉から、仏祖(仏と祖師)の道を学ぶには、必ず菩提心を発悟することが先であることを明らかに知ることでしょう。これは仏祖の不変の法なのです。

発悟すといふは、暁了(ギョウリョウ)なり。これ大覚(ダイカク)にはあらず。たとひ十地(ジュウジ)を頓証(トンショウ)せるも、なほこれ菩薩なり。

発悟とは悟ることです。これは大覚(大悟)ではありません。たとえ菩薩修行の十地を直ちに悟っても、まだ菩薩なのです。

西天(サイテン)二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師はこれ菩薩なり。ほとけにあらず。声聞(ショウモン)、辟支仏(ビャクシブツ)等にあらず。

インドの二十八代の祖師や中国の六代の祖師など、諸々の大祖師は菩薩であり仏ではありません。声聞(仏の説法を聞いて悟る者)や辟支仏(縁起の法を観じて悟る者)などでもありません。

いまのよにある参学のともがら菩薩なり。声聞にあらずといふこと、あきらめしれるともがら一人もなし。

今の世で、仏道を学んでいる仲間は菩薩であり、声聞でないことを明らかに知っている者は一人もいません。

ただみだりに衲僧(ノウソウ)、衲子(ノッス)と自称して、その真実をしらざるによりて、みだりがはしくせり。あはれむべし、澆季(ギョウキ)祖道廃せることを。

ただ妄りに衲僧 衲子(禅僧)と自称して、その真実を知らずにいい加減にしているのです。末の世で仏祖の道が廃れてしまったことを悲しみなさい。

しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、楽にありといふとも、はやく自未得度先度他の心をおこすべし。

ですから、たとえ在家であれ、たとえ出家であれ、或いは天上界の人であれ、或いは人間界の人であれ、苦にあっても、楽にあっても、早く自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)の心を起こしなさい。

衆生界は有辺無辺(ウヘン ムヘン)にあらざれども先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち発菩提心なり。

衆生の世界は有限でも無限でもありませんが、先度一切衆生(先ず全ての衆生を渡す)の心を起こすのです。これが発菩提心なのです。

一生補処菩薩(イッショウ ホショボサツ)、まさに閻浮提(エンブダイ)にくだらむとするとき、覩史多天(トシタテン)の諸天のために、最後の教えをほどこすにいはく、「菩提心は是(コレ)法明門(ホウミョウモン)なり、三宝を断ぜざるが故に。」

一生補処菩薩(弥勒菩薩)が閻浮提(人間の住む地域)に下りようとする時に、覩史多天の諸天衆のために最後の教えを与えて言うには、「菩提心は法を明らめ聖道に入る門である。それは三宝(仏と法と僧)を断絶させないからである。」と。

あきらかにしりぬ、三宝の不断は菩提心のちからなりといふことを。菩提心をおこしてのち、かたく守護し、退転なかるべし。

これにより、三宝を断絶させないことは菩提心の力であることが明らかに知られます。菩提心を起こした後は、それを固く守って退いてはいけません。

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