深信因果(4)

あきらかにしりぬ、曩祖(ノウソ)いまだ因果を撥無(ハツム)せずといふことを。いまの晩進、いまだ祖宗の慈誨(ジカイ)をあきらめざるは、稽古(ケイコ)のおろそかなるなり。稽古おろそかにして、みだりに人天の善知識と自称するは、人天の大賊なり、学者の怨家(オンケ)なり。

この教えで明らかに知られることは、祖師はこれまで因果の法を無視したことはないということです。今、仏道を学ぶ後進で、この鳩摩羅多尊者の慈悲深き教えを、まだ明らかにしていない者は、仏道の稽古が疎かなのです。仏道の稽古を疎かにして、みだりに人間界 天上界の導師と自称する者は、人間界 天上界の大賊であり、修行者のかたきです。

「なんぢ前後のともがら、亡因果(モウ インガ)のおもむきをもて、後学晩進のためにかたることなかれ。これは邪説なり、さらに仏祖の法にあらず。なんだちが疎学によりて、この邪見に堕せり。」

そのような者に私は言おう。「お前たちの仲間よ、因果が無いような話を、後進の為に語ってはいけない。これは正しくない説である。全く仏祖の法ではない。お前たちは仏道を学ぶことを疎かにしているから、このような誤った考えに落ちるのである。」と。

いま震旦(シンタン)国の衲僧(ノウソウ)等、ままにいはく、
「われらが人身をうけて仏法にあふ、一生二生のことなほしらず。前百丈の野狐となれる、よく五百生をしれり。はかりしりぬ、業報
(ゴッポウ)の墜堕にあらじ。金鎖玄関(キンサ ゲンカン)(トド)むれども住せず、異類に行じて且(シバラ)く輪廻(リンネ)す、なるべし。」

今の中国の禅僧などが時折言っていることは、
「我々は人間に生まれて仏法に遇うことが出来たが、今生や来世のことさえ依然として分からない。しかし、前の百丈山の和尚は野狐になっても、よく五百生という長い時を知っていた。これを推し量るに、悪業の報いで野狐に落ちたのではない。悟りの中に安住することなく、畜生になって暫く輪廻しただけである。」と。

大善知識とあるともがらの見解(ケンゲ)、かくのごとし。この見解は、仏祖の屋裡(オクリ)におきがたきなり。

大導師となっている者たちの見解はこのようです。しかしこの見解は、仏祖の教えの中に置くことは出来ないものです。

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