妙法蓮華経如来寿量品偈(1)

(ミョウホウレンゲキョウ ニョライジュリョウホンゲ)

如来の寿命の大きさの章の詩句。

我れ仏を得てより来(コノカタ)、経(ヘ)たる所の諸(モロモロ)の劫数(コウシュ)は、無量百千万億載阿僧祇(ムリョウ ヒャクセンマンオクサイ アソウギ)なり。

私が仏の悟りを得たのは、実に無量百千万億劫の昔のことである。

常に法を説いて、無数億(ムシュオク)の衆生(シュジョウ)を教化(キョウケ)して、仏道に入らしむ。爾(シカ)しより来(コノカタ)無量劫(ムリョウコウ)なり。

その無量劫の間に、常に説法教化して、無数の人々を仏道に導いてきたのである。

衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃(ネハン)を現ず。而(シカ)も実には滅度せず、常に此(ココ)に住して法を説く。

人々を済度するために、方便して涅槃(仏の死)に入ったが、実際には死滅することなく、常にここに居て法を説いているのである。

我れ常に此に住すれども、諸の神通力(ジンズウリキ)を以(モッ)て、顚倒(テンドウ)の衆生をして、近しと雖も而も見えざらしむ。

私は常にここに居るけれども、様々な神通力によって、心の転倒した人々には、近くに居ても見えないようにしているのである。

衆は我が滅度を見て、広く舎利を供養し、咸(コトゴト)く皆 恋慕を懐いて、渇仰(カツゴウ)の心を生ず。

人々は私の死滅を見て、様々に私の舎利(仏骨)を供養し、皆心から私を恋慕し渇仰することであろう。

衆生は既に信伏(シンブク)し、質直(シツジキ)にして意(ココロ)は柔輭(ニュウナン)に、一心に仏を見たてまつらんと欲(ホッ)して、自(ミズカ)ら身命(シンミョウ)を惜しまず。時に我及び衆僧は、倶(トモ)に霊鷲山(リョウジュセン)に出ず。

そして人々が私を信仰し帰依して、正直で柔らかな心で一心に私にまみえたいと願って、自ら身命を惜しまなければ、その時に私と僧たちは、共に霊鷲山に現れるのである。

我時に衆生に語る、「常に此に在(ア)って滅せず、方便力を以ての故に、滅と不滅有りと現ず。」

私は、その時に人々に語るのである。「私は常にここに居て滅することはないが、人々を導く方便として滅する姿と滅せざる姿を現すのである。」と。

余国の衆生の、恭敬(クギョウ)し信楽(シンギョウ)する者有らば、我は復た彼の中に於いて、為に無上の法を説く。汝等、此れを聞かずして、但(タダ)我は滅度すと謂(オモ)えり。

他国の人々で、私のことを敬い信仰し求める者があれば、私はまた、その人々の中で無上の法を説くのである。お前たちは、このことを聞かないので、ただ私が滅したと思うのである。

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