谿声山色(11)

いま学道には、かくのごとくのやまふのあらんとしるべきなり。たとへば、初心始学(ショシン シガク)にもあれ、久修錬行(クシュ レンギョウ)にもあれ、伝道授業(デンドウ ジュゴウ)の機をうることもあり、機をえざることもあり。

今 仏道を学ぶには、このような悩みがあることを知りなさい。例えば、初心の人であれ、久しく修行した人であれ、道を伝え業を授ける人を得ることもあれば、その人を得られないこともあります。

慕古(モコ)してならふ機あるべし、訕謗(センボウ)してならはざる魔もあらん。両頭(リョウトウ)ともに愛すべからず、うらむべからず。

昔の仏祖を慕って仏道を学ぶ人もあれば、謗って学ばない魔もあることでしょう。しかし我々は、両方ともに愛したり恨んだりしてはいけません。

いかにしてかうれへなからん、うらみざらん。いはく、三毒を三毒としれるともがらまれなるによりて、うらみざるなり。いはんやはじめて仏道を欣求(ゴング)せしときのこころざしをわすれざるべし。

どうして愁えたり恨んだりしないのかと言えば、三毒(貪り、怒り、愚かさ)の心を、三毒であると知っている者は希なので、恨まないのです。まして我々は、初めて仏道を願い求めた時の志を忘れてはいけません。

いはく、はじめて発心(ホッシン)するときは、他人のために法をもとめず、名利(ミョウリ)をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、ただひとすじに得道をこころざす。

初めて発心した時には、他人の称賛を得るために仏法を求めたのではなく、名利を投げ捨ててきたのです。名利を求めるのではなく、ただ一筋に仏道を悟ることを志したのです。

かつて国王大臣の恭敬供養(クギョウ クヨウ)をまつこと、期(ゴ)せざるものなり。しかあるに、いまかくのごとくの因縁あり、本期(ホンゴ)にあらず、所求(ショグ)にあらず。人天の繋縛(ケバク)にかかはらんことを期せざるところなり。

一向に国王大臣からの尊敬や供養を希望しなかったのです。それなのに、今このように仏祖が国王大臣から敬われているのは、本望ではないし、求めたものでもありません。仏祖は人間界天上界の束縛を望まないのです。

しかあるを、おろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、仏法の功徳いたれりとよろこぶ。

それなのに愚かな人は、たとえ道心があってもすぐに初志を忘れて、誤って人間界や天上界の供養を待ち望んで、それによって仏法の功徳が得られたと喜ぶのです。

国王大臣の帰依(キエ)しきりなれば、わがみちの現成(ゲンジョウ)とおもへり。これは学道の一魔なり。あはれむこころをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。

そして国王大臣の帰依が多ければ、自分の仏道が実現したと思うのです。これは仏道を学ぶ上での一つの魔です。人々を憐れむ心を忘れてはいけませんが、これを喜んではいけません。

みずや、ほとけののたまはく、如来現在猶多怨嫉(ニョライ ゲンザイ ユウタ オンシツ)の金言あることを。愚の賢をしらず、小畜の大聖(ダイショウ)をあたむこと、理かくのごとし。

あなたは見たことがありませんか、釈尊のお言葉に、「如来が世にいても、怨みや妬みを抱く者は多い。」という金言のあることを。愚か者が賢者を理解せず、つまらない人間が仏を仇と見なすことの道理は、このようです。

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