谿声山色(14)

見仏(ケンブツ)にも自仏他仏(ジブツ タブツ)をみ、大仏小仏(ダイブツ ショウブツ)をみる。大仏にもおどろきおそれざれ、小仏にもあやしみわづらはざれ。

仏を見ることにも、自らの仏や他の仏を見たり、大きな仏や小さな仏を見ることがあります。大きな仏を見ても驚き恐れてはいけません、小さな仏を見ても怪しみ悩んではいけません。

いはゆる大仏小仏を、しばらく山色谿声と認ずるものなり。これに広長舌(コウチョウゼツ)あり、八万偈(ハチマンゲ)あり、挙似迥脱(コジ ケイダツ)なり、見徹独抜(ケンテツ ドクバツ)なり。

いわゆる大きな仏や小さな仏を、暫く山色や谿声に認めるのです。これらに仏の説法があり、八万の偈文があるのです。その説法は全く自在であり、その悟りは独り抜きんでています。

このゆゑに、俗いはく、「弥高弥堅(ミコウ ミケン)なり。」 先仏いはく、「弥天弥綸(ミテン ミリン)なり。」 春松(シュンショウ)の操あり、秋菊の秀ある、即是(ソクゼ)なるのみなり。

このために、世俗の賢者は、「これを仰げばますます高く、これを穿てばますます堅い。」と言い、先の仏祖は、「空一面にあまねく行き渡り、あまねく治まる。」と説いています。春の松に変わらぬ緑の操があり、秋の菊に香り高い花が咲くことも、このような仏の説法なのです。

善知識この田地(デンチ)にいたらんとき、人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに為人(イニン)の儀を存せん、人天の大賊なり。

教えの師がこの境地に至れば、人間界 天上界の大導師となることが出来ます。しかし、まだこの境地に至らないのに、妄りに人を教えようとする者は、人間界 天上界の大賊と言うべきです。

春松しらず、秋菊みざらん、なにの草料(ソウリョウ)かあらん、いかが根源を裁断せん。

春の松を知らず、秋の菊を見ずして、一体何を説こうと言うのでしょうか。どのようにして迷いの根源を断ち切るのでしょうか。

又、心も肉も、懈怠(ケダイ)にもあり、不信にもあらんには、誠心(ジョウシン)をもはらして、前仏(ゼンブツ)に懺悔(サンゲ)すべし。

又、自分の心も体も怠惰であり、不信心でもあれば、真心を尽くして過去の仏に懺悔しなさい。

恁麼(インモ)するとき、前仏懺悔の功徳力、われをすくひて清浄(ショウジョウ)ならしむ。この功徳、よく無礙(ムゲ)の浄心、精進を生長(ショウチョウ)せしむるなり。

そうすれば、過去の仏に懺悔した功徳が、我々を救って清浄にしてくれるのです。この懺悔の功徳は、我々に障りのない清浄な心と精進の心を育ててくれるのです。

浄心一現するとき、自他おなじく転ぜらるるなり。その利益(リヤク)、あまねく情、非情にかうぶらしむ。

懺悔の清浄な心が一たび現れれば、自他同じく影響を受けるのです。その利益は、広くすべての衆生やすべてのものに及ぶのです。

その大旨は、「願(ネガワク)は、われたとひ過去の悪業(アクゴウ)おほくかさなりて、障道(ショウドウ)の因縁ありとも、仏道によりて得道せりし諸仏諸祖、われをあはれみて、業累(ゴウルイ)を解脱せしめ、学道さはりなからしめ、その功徳法門、あまねく無尽法界に充満弥綸(ジュウマン ミリン)せらん、あはれみをわれに分布すべし。仏祖の往昔(オウシャク)は吾等(ワレラ)なり、吾等が当来(トウライ)は仏祖ならん。」

その懺悔の大要は、
「願わくは、たとえ私の過去に多くの悪業が重なり、仏道を妨げる因縁となっていても、仏道によって悟りを得た仏祖方よ、どうかこの私を憐れんで過去の障りから解放し、仏道を学ぶ障害を取り除いてください。仏祖の功徳ある教えは、あまねくすべての世界に充ち満ちていることでしょう。その哀れみを私にも分け与えてください。仏祖も、かつては我々と同じ凡夫でした。我々も将来は仏祖となることでしょう。」と。

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