谿声山色(4)

また香厳智閑禅師(キョウゲン チカン ゼンジ)、かつて大潙大円禅師(ダイイ ダイエン ゼンジ)の会(エ)に学道せしとき、大潙(ダイイ)いはく、「なんぢ聡明博解(ソウメイ ハクゲ)なり、章疏(ショウショ)のなかより記持(キジ)せず、父母未生以前(ブモ ミショウ イゼン)にあたりて、わがために一句を道取(ドウシュ)しきたるべし。」

又、香厳智閑禅師が、以前 大潙大円禅師の道場で学んでいた時に、大潙は言いました。「おまえは聡明博識だが、経書の中から覚えたことではなく、父母がまだ生まれない以前のことについて、私に一言いってみなさい。」と。

香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍(ショジャク)を披尋(ヒジン)するに、なほ茫然(ボウゼン)なり。

香厳は、何度も答えようとしましたが出来ませんでした。深く自分自身を恨み、年来集めた書物を読んで答えを探したのですが、尚 茫然とするばかりでした。

つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生(シショウ)に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧(ギョウシュクハンソウ)とならん。」といひて、行粥飯して年月をふるなり。

遂に年来集めた書を燃やして言うことには、「絵に描いた餅では飢えを満たせない。私はもう今生に仏法を悟ることを望まない。ただ行粥飯僧として務めよう。」と。そうして行粥飯をして年月が過ぎました。

行粥飯僧といふは、衆僧(シュゾウ)に粥飯を行益(ギョウヤク)するなり。このくにの陪饌役送(バイセンヤクソウ)のごときなり。

行粥飯僧とは、修行僧に粥飯を給仕する係です。この国の台所の料理を世話する係のようなものです。

かくのごとくして大潙にまうす、「智閑は心神昏昧(シンジン コンマイ)にして道不得(ドウフトク)なり、和尚、わがためにいふべし。」

香厳はこのようにして大潙に言いました。「私は心が愚かで答えられません。どうか和尚、私のために答えてください。」

大潙のいはく、「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」

大潙の言うことには、「おまえのために言ってもよいが、きっと後になって、おまえは私を怨むことになろう。」と。

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