谿声山色(6)

又 霊雲志勤禅師(レイウン シゴン ゼンジ)は、三十年の辨道(ベンドウ)なり。あるとき遊山するに、山脚(サンキャク)に休息して、はるかに人里を望見(モウケン)す。ときに春なり、桃華(トウカ)のさかりなるをみて、忽然(コツネン)として悟道す。

また霊雲志勤禅師は、三十年仏道に精進しました。ある日 行脚に出かけ、山すそに休息して遠くの人里を望みました。季節は春であり、桃の花が満開に咲いているのを見て、たちまち悟道しました。

(ゲ)をつくりて大潙(ダイイ)に呈するにいはく、
「三十年来 尋剣
(ジンケン)の客、
幾回
(イクタビ)か葉落ち又 枝を抽(ヌキ)んづる。
一たび桃華を見てより後、
(ジキ)に如今(イマ)に至るまで更に疑はず。」

そこで詩を作って 大潙禅師に送りました。
「私は三十年来、川に落とした剣を船べりで探す愚かな人間であった。
 その間、桃の木はいくたび葉を落とし 枝を伸ばしてきたのであろうか。
 一たび桃の花を見てから後は、
 今日に至るまで、全く疑うことはない。」

大潙いはく、「縁より入る者は、永く退失せじ。」すなはち許可するなり。

これを見て大潙の言うことには、
「縁によって仏道に入る者は、永く退くことがない。」と。
大潙は即座に悟道を許可しました。

いづれの入者(ニッシャ)か従縁(ジュウエン)せざらん、いづれの入者か退失あらん、ひとり勤(ゴン)をいふにあらず。

仏道に入った者で、誰か縁によらない者がいるでしょうか。仏道に入った者で、誰が退くというのでしょうか。これは霊雲志勤禅師一人のことを言っているのではありません。

つひに大潙(ダイイ)に嗣法(シホウ)す。山色の清浄身(ショウジョウシン)にあらざらん、いかでか恁麼(インモ)ならん。

こうして霊雲は、遂に大潙の法を継ぎました。山色が仏の清浄身でなければ、どうしてこのように霊雲が悟ることがありましょうか。

谿声山色(5)へ戻る

谿声山色(7)へ進む

ホームへ