袈裟功徳(12)

小乗教師また化絲(ケシ)の説あり。よるところなかるべし、大乗人わらふべし、いづれか化絲にあらざらん。なんぢ化をきくみみを信ずとも、化をみる目をうたがふ。

小乗の師の中には化糸の説を説く者があります。化糸の説とは、絹糸は蚕の繭から作られたものであるから、絹糸を使用することは殺生に当たらないという意見です。これは根拠のない考えです。大乗の人は笑うことでしょう。どのような糸が、生物から作られたものでないと言えましょうか。そのように言う者は、その説を聞いて信じても、その説を見る目は疑わしいものです。

しるべし、糞掃(フンゾウ)をひろふなかに、絹に相似(ソウジ)なる布あらん、布に相似なる絹あらん。

知ることです、拾った糞掃(ぼろ布)の中には、絹に似ている布があるだろうし、麻や綿に似ている絹もあることでしょう。

土俗万差(ドゾク バンシャ)にして、造化(ゾウカ)はかりがたし、肉眼(ニクゲン)のよくしるところにあらず。

土地の風俗は様々であって、その作り方は推量し難く、肉眼ではよく知ることが出来ません。

かくのごとくのものをえたらん、絹布と論ずべからず、糞掃と称すべし。

これらのものを得たならば、それが絹か麻や綿であるかを問題にしてはなりません。これらを糞掃と呼ぶようにしなさい。

たとひ人天の糞掃と生長(ショウチョウ)せるありとも、有情(ウジョウ)ならじ、糞掃なるべし。たとひ松菊(ショウギク)の糞掃と生長せるありとも、非情(ヒジョウ)ならじ、糞掃なるべし。

たとえ人間界や天上界の人々が糞掃に生長したとしても、それは情のあるものではありません。それは糞掃というものです。たとえ松や菊が糞掃に生長したとしても、それは情のないものではありません。糞掃というものです。

糞掃の絹布にあらず、金銀珠玉(コンゴン シュギョク)にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成(フンゾウ ゲンジョウ)するなり。

糞掃が絹や麻 綿ではなく、金銀宝石ではない道理を信じる時、本来の糞掃が現れるのです。

絹布の見解(ケンゲ)いまだ脱落せざれば、糞掃也未夢見在(フンゾウヤ ミムケンザイ)なり。

絹であるか、麻や綿であるか、というような見方考え方が無くならなければ、糞掃をまだ夢にも見たことがないということ、まったく知らないということなのです。

ある僧かつて古仏(コブツ)にとふ、黄梅(オウバイ)夜半の伝衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん、畢竟(ヒッキョウ)じてなにものなりとかせん。

昔ある僧が六祖慧能禅師に尋ねました、「黄梅で五祖弘忍禅師から夜半に伝えられた袈裟は、麻か綿でしょうか、それとも絹でしょうか、結局 何であったのですか。」

古仏いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず。しるべし、袈裟は絹布にあらざる、これ仏道の玄訓(ゲンクン)なり。

六祖は答えて、「それは麻や綿でもなく、絹でもない。」と。知ることです、袈裟は絹や麻 綿ではないということを。これが仏道の奥深い教えなのです。

袈裟功徳(11)へ戻る

袈裟功徳(13)へ進む

ホームへ