袈裟功徳(14)

諸仏の袈裟(ケサ)の体色量(タイ シキ リョウ)の有量無量(ウリョウ ムリョウ)、有相無相(ウソウ ムソウ)、あきらめ参学すべし。西天東地(サイテン トウチ)、古往今来(コオウ コンライ)の祖師、みな参学 正伝(ショウデン)せるところなり。

諸仏の袈裟の形、色、大きさは有限のものか、それとも無限のものか、又、姿 形のあるものか、それとも姿 形の無いものか、ということを明らかにして学びなさい。西方のインドや東地中国に於ける古今の祖師は、皆この事を学んで袈裟を正しく伝えて来たのです。

祖祖正伝のあきらかにしてうたがふところなきを見聞(ケンモン)しながら、いたづらにこの祖師に正伝せざらんは、その意楽(イギョウ)ゆるしがたからん。

諸仏の袈裟を、歴代の祖師が正しく伝えて来たことは明らかで、疑いの無いことを聞いていながら、徒らに袈裟を、この祖師から正しく受け継がないことは、許し難い考えです。

愚痴のいたり、不信のゆゑなるべし。実をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。これ如来を軽忽(キョウコツ)したてまつるならん。

何故なら、それは愚の極みであり、仏祖を信じていないからです。真実を捨てて虚妄を求め、根本を捨てて末節を求めることだからです。これは如来を軽んじることに他なりません。

菩提心(ボダイシン)をおこさんともがら、かならず祖師の正伝を伝受すべし。われらあひがたき仏法にあふたてまつるのみにあらず、仏袈裟正伝の法孫として、これを見聞し、学習し、受持することをえたり。

道心を起こした者は、必ず祖師の正しい伝統の袈裟を受けなさい。我々は、会い難い仏法に会うことが出来たばかりでなく、仏の袈裟を正しく伝える法孫として、袈裟を見聞し、学習し、受けて護持することが出来たのです。

すなはちこれ如来をみたてまつるなり。仏説法をきくなり、仏光明にてらさるるなり、仏受用を受用するなり。仏心を単伝するなり、仏髄をえたるなり。

つまりこれは如来にお会いしたということです。これは仏の説法を聞くことであり、仏の光明に照らされることであり、仏の生活を自らの生活にすることです。又、仏の心を親しく相伝することであり、仏の髄を得たということです。

まのあたり釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)の袈裟におほはれたてまつるなり、釈迦牟尼仏まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟はうけたてまつれり。

又、じかに釈尊の袈裟に覆われることであり、釈尊が直接 我々に袈裟を授けてくださったということなのです。このように、仏に従うことでこの袈裟は受けることが出来たのです。

袈裟功徳(13)へ戻る

袈裟功徳(15)へ進む

ホームへ