袈裟功徳(3)

袈裟はふるくより解脱服と称す。業障(ゴッショウ) 煩悩障(ボンノウショウ) 報障(ホウショウ)等、みな解脱(ゲダツ)すべきなり。

袈裟は古くから解脱服と呼ばれています。これを身に着ければ、過去の悪行による障り、貪り怒り愚かさなどの煩悩による障り、悪行の報いによって苦の生を受ける障りなどから、皆解脱することが出来るのです。

龍もし一縷(イチル)をうれば、三熱をまぬかる。牛もし一角にふるれば、その罪おのづから消滅す。

竜が、もし袈裟の糸一筋を得れば、竜を悩ます三つの苦悩を免れるのであり、牛が、もし袈裟に一角を触れれば、牛の罪は自然に消滅するのです。

諸仏成道(ショブツ ジョウドウ)のとき、かならず袈裟を著(ヂャク)す。しるべし、最尊最上の功徳(クドク)なりといふこと。

また諸仏が成道する時には、必ず袈裟を身に着けているのです。このように、袈裟には最尊最上の功徳があることを知りなさい。

まことにわれら辺地にうまれて末法(マッポウ)にあふ。うらむべしといへども、仏仏嫡嫡相承(ブツブツ テキテキ ソウジョウ)の衣法(エホウ)にあふたてまつる、いくそばくのよろこびとかせん。

実に我等は、辺境の地に生まれて末法の時代に遭いました。これは残念なことですが、仏祖が代々相続してきた袈裟と法に会えたことは、どれほど多くの喜びでありましょうか。

いづれの家門かわが正伝(ショウデン)のごとく、釈尊(シャクソン)の衣法ともに正伝せる。これにあふたてまつりて、たれか恭敬供養(クギョウ クヨウ)せざらん。

どこの宗門が、我々の正しく伝えられてきた宗旨のように、釈尊の袈裟と法を共に正しく伝えて来たでしょうか。この袈裟と法に会うことが出来て、誰が敬って供養しないでいられましょうか。

たとひ一日に無量恒河沙(ムリョウ ゴウガシャ)の身命(シンミョウ)をすてても、供養したてまつるべし。なほ生生世世の値遇頂戴(チグウ チョウダイ)、供養恭敬を発願(ホツガン)すべし。

たとえ一日に無量無数の身命を捨てても、これを供養するべきです。さらに生生世世に渡ってこれに巡り会い、これを頂き、これを供養し敬うという願いを起こすべきです。

われら仏生国(ブッショウコク)をへだつること、十万余里の山海はるかにして、通じがたしといへども、宿善(シュクゼン)のあひもよほすところ、山海に擁塞(ヨウソク)せられず、辺鄙(ヘンピ)の愚蒙(グモウ)きらはるることなし。

我等は、釈尊の生まれた国を隔てること十万余里の、山海遙かな地にあって、釈尊の国へは通い難いのですが、その教えは過去世の善行の報いによって、山海にさえぎられることもなく、辺境の愚かな人間を嫌うこともなく伝えられました。

この正法(ショウボウ)にあふたてまつり、あくまで日夜に修習(シュジュウ)す。この袈裟を受持したてまつり、常恒(ジョウゴウ)に頂戴護持す。

そして我々はこの正法に出会い、思う存分日夜に修行しているのであり、この袈裟を授かり、常に頂戴し護持しているのです。

ただ一仏二仏のみもとにして功徳を修せるのみならんや、すでに恒河沙等の諸仏のみもとにして、もろもろの功徳を修習せるなるべし。

これは我々が、ただ一人二人の仏のもとで功徳を修めただけでなく、すでに無数の諸仏のもとで、多くの功徳を修めたからに違いありません。

たとひ自己なりといふとも、たふとぶべし、随喜(ズイキ)すべし。祖師伝法の深恩、ねんごろに報謝(ホウシャ)すべし。

このことを、たとえ自分のことでも尊ぶことです。これを喜ぶことです。祖師が法を伝えてくれた恩の深さを心から感謝することです。

畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずば、畜類よりも愚なるべし。

鳥や獣でさえ恩に報いるのですから、人間がどうして恩を知らないことがありましょうか。もし恩を知らなければ、畜類よりも愚かと言うべきでしょう。

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