袈裟功徳(9)

しかあればすなはち、仏祖正伝(ブッソ ショウデン)の作袈裟(サクゲサ)の法によりて作法(サクホウ)すべし。ひとりこれ正伝なるがゆゑに、凡聖(ボンショウ)人天(ニンデン) 龍神(リュウジン)、みなひさしく証知(ショウチ)しきたれるところなり。

そういうことで、袈裟は、仏祖の正しい伝統の袈裟の作法によって作りなさい。これだけが正しい伝統の袈裟なので、これを凡夫も聖人も、人間界でも天上界でも、仏法を守る龍神も、皆が長く認めて来たのです。

この法の流布(ルフ)にうまれあひて、ひとたび袈裟を身体におほひ、刹那(セツナ)須臾(シュユ)も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提(ケツジョウ ジョウ ムジョウ ボダイ)の護身符子(ゴシン フシ)ならん。

この袈裟の法が流布する時に生まれて、一度でも袈裟を身体にまとい、ほんの少しの間でもそれを護持すれば、それは必ず無上の悟りを成就する護身の札となることでしょう。

一句一偈(イック イチゲ)を身心(シンジン)にそめん、長劫(チョウゴウ)光明(コウミョウ)の種子(シュウジ)として、つひに無上菩提にいたる。一法一善を身心にそめん、亦復如是(ヤクブ ニョゼ)なるべし。

仏法の僅かな教えでも身心に染めれば、それは永劫に智慧の光明の種子となって、遂には無上の悟りを得るのです。この袈裟の一法一善を身心に染めれば、また同じように無上の悟りを得ることでしょう。

心念も刹那生滅(セツナ ショウメツ)し、無所住(ムショ ジュウ)なり、身体も刹那生滅し、無所住なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。

心の思いは、刹那に生じては滅して止まる所なく、身体も、刹那に生じては滅して止まる所はありませんが、修めた功徳は、必ず熟して脱落(解脱)を得る時があるのです。

袈裟また作(サ)にあらず無作(ムサ)にあらず、有所住(ウショジュウ)にあらず無所住(ムショジュウ)にあらず、唯仏与仏(ユイブツ ヨブツ)の究尽(グウジン)するところなりといへども、受持する行者(ギョウジャ)、その所得の功徳かならず成就(ジョウジュ)するなり、かならず究竟(クキョウ)するなり。

また袈裟は、働きのあるものでも、ないものでもありませんし、止まる所が有るのでも、無いのでもありませんが、ただ仏だけが究め尽くすことが出来るところであっても、この袈裟を受けて護持する修行者は、その功徳によって必ず成就することが出来るのであり、必ず究め尽くすことが出来るのです。

もし宿善(シュクゼン)なきものは、一生二生(イッショウ ニショウ)、乃至(ナイシ)無量生を経歴(キョウリャク)すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。

もし過去世に善根の無い者は、一生 二生、更に無量の生を経たとしても、袈裟を見ることもなく、袈裟を着けることもなく、袈裟を信じて受けることもなく、袈裟を明らかに知ることもないでしょう。

いま震旦国(シンタンコク)日本国をみるに、袈裟をひとたび身体に著することうるものあり、えざるものあり、貴賤(キセン)によらず、愚智によらず。はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。

今の中国や日本を見てみると、袈裟を一度は身に着けることの出来る人があり、また出来ない人もあります。それは、身分の高いことや低いことに関係なく、愚かであるか智者であるかには関係がありません。推察するに、これはその人の過去世の善根によるものでしょう。

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