帰依三宝(4)

(きえ さんぼう)

 法華経(ホッケキョウ)に曰(イハ)く、
「是
(コ)の諸(モロモロ)の罪の衆生(シュジョウ)は、悪業(アクゴウ)の因縁(インネン)を以て、阿僧祇劫(アソウギコウ)を過ぐれども、三宝の名(ミナ)を聞かず。」

 法華経には次のように説かれています。
「この罪多き人々は、悪しき行いのために、無量の時を経ても、三宝(仏陀、仏法、僧団)の名を聞くことがない。」と。

 法華経は、諸仏如来 一大事の因縁なり。大師釈尊 所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり、大師なり。余経余法は、みなこれ法華経の臣民(シンミン)なり、眷属(ケンゾク)なり。

 法華経は、諸仏 如来が世に出現した大切な因縁を説いた経典です。大師 釈尊の説いた諸経の中では、法華経は大王であり大師なのです。その他の経典その他の教えは、皆 法華経に従う臣下であり家族なのです。

法華経の所説、これまことなり。余経中の所説、みな方便(ホウベン)を帯(タイ)せり、ほとけの本意にあらず。余経中の説をきたして、法華に比校(ヒコウ)したてまつらん、これ逆なるべし。

法華経に説かれている教えは真実です。他経の中に説かれている教えは、皆 方便を帯びていて、釈尊の本意ではありません。ですから、他経の中の教説によって、法華経を比較して論ずることは本来逆なのです。

法華の功徳力(クドクリキ)をかうぶらざれば、余経あるべからず。余経はみな法華に帰投(キトウ)したてまつらんことをまつなり。この法華経のなかに、いまの説まします。しるべし、三宝の功徳、まさに最尊なり、最上なりといふこと。

法華経の功徳力を受けなければ、他の経は存在しなかったのです。他の経は、皆 法華経に従うことを待ち望んでいるのです。この法華経の中に、先ほどの教えが説かれています。これによって、三宝の功徳は、まさに最尊であり最上であることを知りなさい。

 世尊 言(ノタマ)はく、
「衆人 所逼
(ショヒツ)を怖れて、多く諸山 園苑(オンエン) 及び叢林(ソウリン) 孤樹 制多(セイタ)等に帰依す。此(コ)の帰依は勝(ショウ)に非(アラ)ず、此の帰依は尊(ソン)に非ず。此の帰依に因(ヨ)りては、能(ヨ)く衆苦を解脱(ゲダツ)せず。

 世尊(釈尊)は次のように言われました。
「人々は窮迫することを怖れて、多くの人が山々や庭園、林、一樹、廟などの神に帰依している。だがこの帰依は勝れたものでも尊いものでもない。この帰依によっては、多くの苦を解脱することはできない。

諸の仏に帰依し、及び法僧に帰依すること有るは、四聖諦(シショウタイ)の中に於いて、恆(ツネ)に慧を以て観察し、苦を知り、苦の集を知り、永く衆苦(シュク)を超えんことを知り、八支(ハッシ)の聖道(ショウドウ)、安穏(アンノン)の涅槃(ネハン)に趣(オモム)くと知る。

しかし諸人が仏に帰依し、仏の法や僧団に帰依するならば、その四聖諦(苦、集、滅、道の四つの真理)の教えの中で、常に智慧によって世間を観察して、その苦を知り、苦の原因を知り、永く諸々の苦を離れることを知り、そして八つの聖道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)によって、安穏の涅槃(仏の悟り)に赴くことを知るであろう。

此の帰依は最勝なり、此の帰依は最尊なり。必ず此の帰依に因りて、能く衆苦を解脱(ゲダツ)せん。」

この帰依は最も勝れ、最も尊いものである。必ずこの帰依によって、多くの苦を解脱することが出来るのである。」と。

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