供養諸仏(14)

(くようしょぶつ)

龍樹祖師(リュウジュソシ)の曰(イハ)く、
「仏果
(ブッカ)を求むるが如きは、一偈(イチゲ)を讃歎(サンタン)し、一南謨(イチナモ)を称し、一捻香(イチネンコウ)を焼き、一華(イッケ)を奉献(ブコン)せん。是(カク)の如くの小行(ショウギョウ)も、必ず作仏(サブツ)することを得ん。」

龍樹祖師の言うことには、
「仏とならんことを求める者は、経文の一偈を賛嘆し、一たび南無仏(仏に帰依し奉る)と唱え、仏に一つまみの香を焚き、一本の花を手向けなさい。このような小さな行いでも、必ずや仏となることが出来るであろう。」と。

これひとり龍樹祖師菩薩の所説といふとも、帰命(キミョウ)したてまつるべし。いかにいはんや大師釈迦牟尼仏の説を、龍樹祖師、正伝挙揚(ショウデン コヨウ)しましますところなり。

これは龍樹祖師菩薩だけが説いている教えですが、この教えに帰依し奉りなさい。いうまでもなく、ここで大師 釈迦牟尼仏の説かれた教えを、龍樹祖師は正しく伝え宣揚しているのです。

われらいま仏道の宝山にのぼり、仏道の宝海にいりて、さいはひにたからをとれる、もともよろこぶべし。

我等は今、仏道の宝の山に登り、仏道の宝の海に入って、幸いにもこの教えの宝を得たことは、本当に喜ぶべきことです。

曠劫(コウゴウ)の供仏(クブツ)のちからなるべし。必得作仏(ヒットク サブツ)うたがふべからず、決定(ケツジョウ)せるものなり。釈迦牟尼仏の所説、かくのごとし。

これは遠い昔に仏を供養した力のお陰に違いありません。この「必ずや仏となることが出来る」という言葉を疑ってはいけません。必ずそのようになるのです。釈迦牟尼仏の説く教えとは、このようであります。

「復た次に、小因大果(ショウイン ダイカ)、小縁大報(ショウエン ダイホウ)といふこと有り。仏道を求むるが如き、一偈を讃(サン)し、一たび南無仏(ナムブツ)を称し、一捻香を焼く、必ず作仏することを得ん。何(イカ)に況や諸法実相(ショホウ ジッソウ)、不生不滅(フショウ フメツ)、不不生不不滅を聞知(モンチ)して、而(シカ)も因縁の業(ゴウ)を行ぜん、亦(マタ)失せず。」

また龍樹祖師が言うには、
「また次に、小因大果(小さな直接的原因が大きな結果を生む)、小縁大報(小さな間接的原因によって大きな果報を受ける)ということがある。だから仏道を求める者が、経文の一偈を讃えたり、一たび南無仏と唱えたり、仏に一つまみの香を焚いたりすれば、それによって必ず仏となることが出来るのである。まして諸法実相(すべてのものは、そのまま真実の姿である)や不生不滅(すべてのものは生じることなく滅することもない)、不不生不不滅(すべてのものは生じない訳でも滅しない訳でもない)の道理を聞いて知り、更にこのような成仏の因縁の善業を行えば、成仏を失することはないのである。」と。

世尊の所説かくのごとくあきらかなるを、龍樹祖師したしく正伝しましますなり。誠諦(ジョウタイ)の金言(キンゴン)、正伝の相承(ソウジョウ)あり。たとひ龍樹祖師の説なりとも、余師の説に比すべからず。

世尊(釈尊)の、このように明らかな教えを、龍樹祖師は親しく伝えられたのです。これは釈尊の真実の言葉であり、正しく伝え相承された教えなのです。ですから、たとえこれが龍樹祖師の所説であっても、他の師の所説と比べることは出来ないのです。

世尊の所示(ショジ)を正伝流布(ショウデン ルフ)しましますにあふことをえたり、もともよろこぶべし。これらの聖教(ショウギョウ)を、みだりに東土の凡師の虚設(コセツ)に比量(ヒリョウ)することなかれ。

我々は、世尊(釈尊)の教説が正しく伝わり、流布している時に会うことが出来ました。本当に喜ぶべきことです。ですから、これらの聖者の教えを、妄りに中国の凡庸な師が唱える虚妄な説と比べてはいけません。

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