供養諸仏(25)

(くようしょぶつ)

次に、供養の心に六種有り。
一には福田無上心
(フクデン ムジョウシン)。生福田(ショウ フクデン)の中の最勝(サイショウ)なり。
二には恩徳無上心
(オントク ムジョウシン)。一切の善楽(ゼンギョウ)は、三宝に依って出生(シュッショウ)す。
三には生一切衆生最勝心
(ショウ イッサイ シュジョウ サイショウシン)
四には如優曇鉢華難遇心
(ニョ ウドンハツゲ ナングウシン)
五には三千大千世界殊独一心
(サンゼン ダイセンセカイ シュドク イッシン)
六には一切世間出世間、具足依義心
(グソク エギシン)。謂(イハ)く、如来 世間出世間の法を具足したまひ、能(ヨ)く衆生の与(タメ)に依止処(エシショ)と為(ナ)りたまふを、具足依義と名づく。

次に、供養の心には六種類がある。
一は、三宝(仏、仏の法、仏の僧団)は福田(福の収穫を与える田)の中で無上のものと観じる心。三宝は福を生じる田の中で最も優れたものである。
二は、仏の恩徳(恩恵)は無上のものと観じる心。すべての善き楽しみは三宝によって生まれる。
三は、三宝はすべての人々に最勝の心を生じさせると観じる心。
四は、仏には三千年に一度咲くという優曇華のように会い難いと観じる心。
五は、仏心は、全世界の中でかけがえのない一つの心であると観じる心。
六は、仏はすべての世間と出世間(出家)の人々のよりどころであると観じる心。如来(仏)は世間と出世間の法を熟知されていて、よく人々のためによりどころとなられていることを具足依義という。

(コ)の六心を以て、是れ少物(ショウモツ)なりと雖(イエド)も、三宝に供養すれば、能く無量無辺の功徳を獲(エ)しむ。何(イカ)に況(イワン)や其(ソ)の多からんをや。」

この六つの心によって、たとえ少しの物でも三宝に供養すれば、無量無辺の功徳が得られるのである。まして、その供養が多ければなおさらである。」と。

 かくのごとくの供養、かならず誠心(ジョウシン)に修設(シュセツ)すべし。諸仏かならず修しきたりましますところなり。その因縁、あまねく経律にあきらかなれども、なほ仏祖まのあたり正伝(ショウデン)しきたりまします。

 このような供養を、必ず真心で行いなさい。これは諸仏が必ず修めてこられたものなのです。その供養の因縁は、広く経や律に明らかに説かれていますが、さらに仏祖(仏と祖師)は、それを直接 正しく伝えてこられたのです。

執侍服労(シツジ フクロウ)の日月、すなはち供養の時節なり。形像舎利(ギョウゾウ シャリ)を安置し、供養礼拝し、塔廟をたて支提(シダイ)をたつる儀則(ギソク)、ひとり仏祖の屋裏(オクリ)に正伝せり、仏祖の児孫にあらざれば正伝せず。

諸仏に仕える月日とは、つまり供養の日々のことなのです。仏像や舎利(仏の遺骨)を安置して供養礼拝すること、塔廟や霊廟を建てる作法などは、ただ仏祖の教えの中だけに正しく伝えられてきたのであり、仏祖の児孫(門弟)でない者はそれを正しく伝えていないのです。

またもし如法(ニョホウ)に正伝せざれば、法儀相違(ホウギ ソウイ)す。法儀相違するがごときは供養まことならず。供養まことならざれば、功徳おろそかなり。かならず如法供養の法、ならひ正伝すべし。

又、もし法の通りに正しく伝えなければ、作法は違ったものになります。作法が違えばその供養はまことのものになりません。供養がまことのものでなければ功徳は劣ります。ですから、必ず法の通りに供養の法を学んで正しく伝えていきなさい。

令韜禅師(レイトウ ゼンジ)は曹谿(ソウケイ)の塔頭(タッチュウ)に陪侍(バイジ)して年月をおくり、盧行者(ロアンジャ)は昼夜にやすまず碓米供衆(ツイメイ クシュ)する、みな供養の如法なり。これその少分なり、しげくあぐるにいとまあらず。かくのごとく供養すべきなり。

令韜禅師は曹谿(六祖慧能)の墓塔に仕えて年月を送り、また盧行者(六祖慧能)は五祖弘忍のもとで、昼夜に休まず米を搗いて僧衆に供養したことは、皆 供養の作法であったのです。これはその少しの例であって多くを取り上げることはできませんが、我々はこのように供養するべきなのです。

正法眼蔵 供養諸仏 第五
建長七年 夏安居
(ゲアンゴ)の日
弘安第二 己卯
(ツチノト ウ)六月二十三日 永平寺 衆寮(シュリョウ)に在って之を書写す。

正法眼蔵 供養諸仏 第五
建長七年(1255)夏安居の日
弘安二年(1279)六月二十三日、永平寺衆寮に於いてこれを書写する。

供養諸仏おわり

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