供養諸仏(9)

(くようしょぶつ)

おほよそ三大阿僧祇劫(サンダイアソウギコウ)の供養諸仏、はじめ身命(シンミョウ)より、国城妻子、七宝男女(シッポウナンニョ)等、さらにをしむところなし。凡慮のおよぶところにあらず。

釈尊が修めた、およそ三大阿僧祇劫(菩薩が仏となるまでの三つの無量の修行期間)に亘る諸仏の供養は、身命を始めに、国や城、妻子、七種の珍宝、召使いの男女などをも、決して惜しまないものでした。それはとても凡人の考え及ぶところではありません。

あるいは黄金の粟(ゾク)を白金(ハクゴン)の埦(ワン)にもりみて、あるいは七宝の粟を金銀(コンゴン)の埦にもりみてて供養したてまつる。

ある時は金の粟を銀の器に盛り上げて供養し、ある時は七種の宝石の粟を金銀の器に盛り上げて供養されました。

あるいは小豆(ショウズ)、あるいは水陸(スイリク)の華、あるいは栴檀(センダン)沈水香(ジンスイコウ)等を供養したてまつり、あるいは五茎(ゴキョウ)の青蓮華(ショウレンゲ)を、五百の金銭をもて買取て、燃燈仏(ネントウブツ)を供養したてまつりまします。あるいは鹿皮衣(ロクヒエ)、これを供養したてまつる。

又ある時は小豆を供養し、ある時は水陸の花を供養し、ある時は栴檀香や沈水香などを供養されました。ある時には五本の青い蓮華を五百の金銭で買い取って燃燈仏に供養されました。又ある時は鹿の皮衣を供養されました。

おほよそ供仏(クブツ)は、諸仏の要枢(ヨウスウ)にましますべきを供養したてまつるにあらず、いそぎわがいのちの存せる光陰を、むなしくすごさず供養したてまつるなり。

およそ仏の供養は、諸仏がきっと重要にしておられるであろうことを供養申し上げるのではありません。急いで自分の命のある光陰(月日)を、空しく過ごさずに供養申し上げるのです。

たとひ金銀なりとも、ほとけの御ため、なにの益かあらん。たとひ香華なりとも、またほとけの御ため、なにの益かあらん。

たとえ金銀であっても、仏の為には何の益がありましょうか。たとえ香や花であっても、又、仏の為には何の益がありましょうか。

しかあれども、納受せさせたまふは、衆生をして功徳を増長せしめんための大慈大悲(ダイズダイヒ)なり。

そうではありますが、これを仏が受け入れなさるのは、衆生(人々)の功徳を増長させるための大慈悲心からなのです。

供養諸仏(8)へ戻る

供養諸仏(10)へ進む

ホームへ