道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

三時業(1)

(さんじごう)

第十九祖 鳩摩羅多尊者(クモラタ ソンジャ)、中天竺国(チュウ テンジク コク)に至る。大士有り、闍夜多(シャヤタ)と名づく。

第十九祖 鳩摩羅多尊者が中央インド国にやって来た時、闍夜多という名の優れた人物に会いました。

問うて曰(いわ)く、「我が家の父母、素(モト)より三宝を信ず。而(シカ)るに嘗(ムカシ)より疾瘵(シッサイ)に縈(マツ)はれ、凡そ営む所の事 皆意の如くならず。

彼は尊者に尋ねました。「我が家の父母は、平素から三宝(仏と法と僧)を信じ敬っていますが、昔から病気がちで日々の暮らしも皆思うようになりません。

而るに我が隣家は、久しく旃陀羅(センダラ)の行(ギョウ)を為し、而も身 常に勇健にして、作(な)す所 和合す。彼 何の幸かある、而も我 何の辜(ツミ)かある。」

しかし隣の家は、久しく旃陀羅(インドに於ける漁猟 守獄 屠畜などを生業とした最下位の種族階級)の仕事をしながら常に元気で健康に恵まれ、何事も順調です。彼等にどんな幸福の因があり、我々にどんな罪の因があるというのでしょうか。」

尊者曰く、「何ぞ疑ふに足らんや。且(シバラ)く善悪の報に三時あり。凡そ人は、但(タダ) 仁は夭(ヨウ)に暴は寿に逆は吉に義は凶なるを見て、便(スナワ)ち因果亡じ罪福虚しと謂(オモ)へり。

尊者は答えて、「それは何も疑うに足らないことだ。一まず善悪の果報には、三時(今生、次生、次生以後の三つの時期)がある。そもそも人間は、情け深い人が若死にして乱暴者が長生きし、道理に背く者が良い目に会って正直者が災いに会うのを見て、因果の道理無く、罪の報いも福の報いも無いと思うものである。

(コト)に知らず、影響相随ひて毫釐(ゴウリ)も忒(タガ)ふこと靡(ナ)く、縦(タト)ひ百千万劫を経るとも亦(マタ)磨滅せざることを。」

そのために因果の法は、物に必ず影や響きが付き従うように、たとえ百千万劫の時を過ぎても磨滅しないことを少しも知らない。」と。

時に闍夜多、是の語を聞き已って、頓に所疑を釈(ト)けり。

その時 闍夜多は、この言葉を聞き終わって、すぐにその疑いを解くことが出来ました。

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