ほとけののたまはく、「布施する人の衆会(シュエ)のなかにきたるときは、まづその人を諸人のぞみみる。」 しるべし、ひそかにそのこころの通ずるなりと。
釈尊の言うことには、「布施する人が会衆の中に来た時には、先ずその人を皆は見なさい。」と。 知ることです、その人と、ひそかにその心が通じるということを。
しかあればすなはち、一句一偈の法をも布施すべし、此生他生(シショウ タショウ)の善種となる。一銭一草の財(タカラ)をも布施すべし、此世他世(シセ タセ)の善根をきざす。
そういうわけですから、仏法のほんの少しの教えでも布施しなさい。それは今生と後生の善き種となることでしょう。ほんの少しの財でも布施しなさい。現世と来世の善根が芽生えることでしょう。
法もたからなるべし、財も法なるべし。願楽(ガンギョウ)によるべきなり。
法も宝であり、又、財も法なのです。布施は願ってするべきものなのです。
まことにすなはち、ひげをほどこしては、もののこころをととのへ、いさごを供(クウ)じては、王位をうるなり。
実に過去には、国王が病める臣下の為に、大切な自分の鬚を薬として与えて民心を整えたことや、子供の頃、仏に砂を供えた縁によって、後には国王となった例があります。
ただかれが報謝をむさぼらず、みづからがちからをわかつなり。舟をおき、橋をわたすも、布施の檀度なり。
それは、ただその人が、相手からの感謝や報いを望まずに、自らの力を分かち与えただけなのです。川を渡る人のために舟を置き、橋を架けることも、布施の行いなのです。
もしよく布施を学するときは、受身捨身ともにこれ布施なり、治生(チセイ)産業もとより布施にあらざることなし。
もしよく布施を学べば、菩薩が衆生教化のために六道に生を受けたり、衆生のために身を捨てることも、共に布施であることが分かります。日々の生業や産業も、元来 布施でないものはありません。
はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも、布施の功業(コウギョウ)なるべし。
咲く花を風にまかせ、鳴く鳥を時にまかせることも、布施の大きな仕事です。
阿育大王(アイク ダイオウ)の半菴羅果(ハンアンラカ)、よく数百の僧衆に供養せし、広大の供養なりと証明する道理、よくよく能受(ノウジュ)の人も学すべし。
阿育大王は、晩年持てる財物をすべて施し尽くして、ついにマンゴー半分を持つだけになりましたが、それを僧団に施して数百の僧衆を供養できたことは、それが広大な供養であったことを証明しています。この道理を十分に布施を受ける人も学びなさい。
身力(シンリキ)をはげますのみにあらず、便宜(ベンギ)をすごさざるべし。
我々は布施に自ら励むだけでなく、そのよい機会を逃してはいけません。
まことに、みづからに布施の功徳の本具(ホング)なるゆゑに、いまのみづからはえたるなり。
実に、我々自身には布施の功徳がもとから具わっているために、今の自分は生まれてきたのです。