四禅比丘(12)

(しぜんびく)

真諦三蔵(シンタイ サンゾウ)(イ)はく、
「振旦
(シンタン)に二福 有(ア)り、一には羅刹(ラセツ)無く、二には外道(ゲドウ)無し。」

真諦三蔵の言うことには、
「中国には二つの幸福がある。一つは羅刹(悪鬼)がいないこと、二つには外道(仏教以外の教えを信奉する者)がいないことである。」と。

このことば、まことに西国(サイゴク)の外道婆羅門(ゲドウ バラモン)の伝来せるなり。得道(トクドウ)の外道(ゲドウ)なしといふとも、外道の見(ケン)をおこすともがらなかるべきにあらず。

これは実にインドの外道、バラモンの言葉を伝えたものです。中国には、道を得た外道はいないとは言っても、外道の考えを起こす出家がいない訳ではありません。

羅刹はいまだみえず、外道の流類(ルルイ)はなきにあらず。小国辺地のゆゑに、中印度のごとくにあらざることは、仏法をわづかに修習(シュジュウ)すといへども、印度のごとくに証(ショウ)をとれるなし。

羅刹はまだ見たことがなくても、外道の部類は無い訳ではないのです。この国が小国辺地のために、中央インドと同じでないことは、仏法をほんの少し学習しても、インドのように悟りを得る者がいないことからも明らかです。

古徳云はく、
「今時
(コンジ)多く還俗(ゲンゾク)の者有り、王役(オウヤク)を畏憚(イタン)して、外道の中に入る。仏法の義を偸(ヌス)み、竊(ヒソ)かに荘老を解(ゲ)して、遂に混雑を成し、初心の孰(イヅ)れか正、孰れか邪なるを迷惑(メイワク)す。是(コレ)を韋陀法(イダホウ)を発得(ハットク)するの見(ケン)と為す。」

古聖の言うことには、
「この頃、多数還俗する者がいる。国王による懲役を恐れて、外道の中に入っているのである。そして仏法の教えを盗んで密かに荘子や老子を解釈し、遂にはそれを混ぜこぜにして、初心の者の正邪の分別を迷わせている。これを外道の法を起こす考えと言うのである。」と。

しるべし、仏法と荘老と、いづれか正、いづれか邪をしらず、混雑するは、初心のともがらなり。いまの智円、正受(ショウジュ)等これなり。ただ愚昧(グマイ)のはなはだしきのみにあらず、稽古(ケイコ)なきのいたり、 顕然(ケンネン)なり、炳焉(ヘイエン)なり

このことから知りなさい、仏法と荘子老子の教えと、どちらが正しくどちらが正しくないかを知らず、混ぜこぜにしてしまうのは、初心の出家のすることであり、今の智円や正受などがまさにそうなのです。これはただ暗愚の甚だしいだけでなく、全く仏道を稽古しない結果であることは極めて明らかです。

近日宋朝の僧徒、ひとりとしても、孔老は仏法におよばずとしれるともがらなし。名を仏祖の児孫にかれるともがら、稲麻竹葦(トウマチクイ)のごとく、九州の山野にみてりといふとも、孔老のほかに仏法すぐれいでたりと暁了(キョウリョウ)せる一人半人あるべからず。ひとり先師天童古仏(センシ テンドウ コブツ)のみ、仏法と孔老とひとつにあらずと暁了せり、昼夜に施設(セセツ)せり。

近頃の宋国の僧は、一人として、孔子老子の教えは仏法に及ばないと知っている者がいません。仏祖の児孫と言われる者たちは、数え切れないほど中国全土の山野に満ちていますが、孔子老子よりも、仏法が優れていることを明らかに知っている者は、一人も半人もいないのです。ただ一人、先師、天童如浄和尚だけが、仏法と孔子老子の教えは同じでないことを明らかに知り、それを昼夜に説いていたのです。

経論師(キョウロンジ)また講者の名あれども、仏法はるかに孔老の辺(ホトリ)を勝出せりと暁了せるなし。近代一百年来の講者、おほく参禅学道のともがらの儀をまなび、その解会(ゲエ)をぬすまんとす、もともあやまれりといふべし。

経師、論師、また講師の名声ある者でも、仏法は遥かに孔子老子の教えを抜きん出ていることを、明らかに知っている人はいません。近代百年来の講師の多くが、参禅学道の出家の威儀を学んで、解明会得したことを盗もうとしたことは、いかにも誤りであったと言えます。

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