四禅比丘(14)

(しぜんびく)

しかあるを、学者くらきによりて、諸仏にひとしむる、迷中又深迷(メイチュウ ウジンメイ)なり。孔老(コウロウ)は三世(サンゼ)をしらず、多劫(タゴウ)をしらざるのみにあらず、一念しるべからず、一心しるべからず。

それなのに、仏道を学ぶ者が無知で、孔子老子などを諸仏と同列に並べることは、迷いの上にまた深く迷いを重ねる行為です。孔子老子は三世(過去 現在 未来)を知らず、多くの劫(測り知れない長い時間)を知らないだけでなく、刹那の一念を知らず、一心を知らないのです。

なほ日月天(ニチガツテン)に比(ヒ)すべからず、四天王(シテンノウ)、衆天(シュテン)におよぶべからざるなり。世尊(セソン)に比するは、世間、出世間(シュッセケン)に迷惑(メイワク)するなり。

彼らを日天子(太陽)月天子(月)にさえ、なぞらえてはいけません。彼らは四天王(東方持国天、西方広目天、南方増長天、北方多聞天)や多くの天神にも及ばないのです。彼らを世尊(仏)になぞらえることは、世の人々や出家の人々を惑わすことなのです。

 列伝に云(イ)はく、
(キ)、周(シュウ)の大夫(タイフ)と為(ナ)り星象(セイショウ)を善(ヨ)くす。
(チナ)みに異気(イキ)を見て、東にして之(コレ)を迎ふ。
果たして老子
(ロウシ)を得たり。請うて書五千有言を著(アラワ)さしむ。
喜、亦
(マタ)自ら書九篇を著し、関令子(カンレイシ)と名づく。化胡経(ケコキョウ)に準ず。
老、関西
(カンセイ)に過(ユ)かんとす、喜、耼(タン)に従ひて去(ユ)くことを求めんと欲(ネガ)ふ。
耼云はく、「若
(モ)し志心に去くことを求めんと欲はば、当(マサ)に父母等の七人の頭を将(モ)ち来るべし。乃(スナワ)ち去くことを得べし。」
喜、乃ち教えに従ふに、七頭、皆 猪頭
(チョトウ)に変ず。

 老荘の列伝に言うことには、
尹喜(インキ)は周の国の大夫となり星の吉凶に詳しかった。
ある日、特異な気配を見て東に行きこれを迎えると、予期した通り老子という人物を得た。そこで請うて五千言余りの書物を書いてもらった。
尹喜は又、自ら九編の書を著して関令子と名づけた。これは道家の化胡経(老子が仏となり仏教の基となったと説く)に準ずるものである。
ある時、老耼(老子)は函谷関の西へ行こうとした。そこで尹喜は老耼に同行したいと願い出た。
老耼が言うには、「もし本当に私と行きたいのなら、父母ら七人の頭を持ってきなさい。そうすれば同行を許す。」と。
そこで尹喜が教えに従うと、七人の頭は皆 猪の頭に変わったという。

 古徳(コトク)云はく、
「然
(シカ)あれば俗典の孝儒(コウジュ)は尚(ナホ)木像を尊ぶ、老耼(ロウタン)は化(ケ)を設けて、喜をして親を害せしむ。如来の教門は、大慈を本と為す、如何(イカン)が老氏の逆を化原(ケゲン)と為さんや。」

 そこで古聖の言うには、
「老子と仏は同じと言うが、俗典の孝経儒教でも父母の木像を尊んでいるのに、老耼は猪を父母らに変化させて尹喜に親を害させた。如来(仏)の教えは大慈悲を根本としているのであり、どうして老耼の教えた逆罪を教化の基本とすることがあろうか。」と。

 むかしは老耼をもて世尊にひとしむる邪党あり、いまは孔老ともに世尊にひとしといふ愚侶(グリョ)あり、あはれまざらめやは。孔老なほ転輪聖王(テンリンジョウオウ)の十善をもて世間を化するにおよぶべからず。

 昔は老耼を世尊(仏)と同列に並べる邪党がいました。今では孔子老子も共に世尊と同じであると言う愚かな僧侶がいます。哀れなことです。孔子老子は、転輪聖王(三十二の好相を具えた偉大な世俗の王)が十の善行で世の中を治めることにさえ及ばないのです。

三皇五帝(サンコウ ゴテイ)、いかでか金銀銅鉄諸輪王(コンゴンドウテツ ショリンノウ)の七宝千子(シッポウ センシ)具足(グソク)して、あるいは四天下(シテンゲ)を化し、あるいは三千界を領せるにおよばん。孔子はいまだこれにも比すべからず。

たとえ太古の聖天子と呼ばれた三人の皇帝や五人の皇帝であっても、どうして金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王などの転輪聖王たちが七宝や千人の子息を具備して、ある人は四天下(東西南北の国土)を導き、ある人は三千界(宇宙)を治めていることに及ぶものでしょうか。孔子はまだ、この太古の聖天子にもなぞらえることは出来ないのです。

過現当来(カゲントウライ)の諸仏諸祖、ともに父母、師僧、三宝に孝順(コウジュン)し、病人等を供養するを化原とせり。害親(ガイシン)を化原とせる、いまだむかしよりあらざるところなり。

過去 現在 未来の諸仏や諸祖師は、皆ともに父母、師僧、三宝(仏、法、僧団)に孝を尽くし、病人等を供養することを教化の基本としているのであり、親を害することを教化の基本とすることは昔から無かったのです。

しかあればすなはち、老耼と仏法と、ひとつにあらず。父母を殺害(セツガイ)するは、かならず順次生業(ジュンジショウゴウ)にして、泥犁(ナイリ)に堕すること必定(ヒツジョウ)なり。たとひ老耼みだりに虚無を談ずとも、父母を害せんもの、生報(ショウホウ)まぬがれざらん。

ですから、老耼と仏法は同じではありません。父母を殺害する者は、必ず次の生にその報いを受けて、必ず阿鼻地獄に堕ちるのです。たとえ老耼がむやみに虚無を説いたとしても、父母を害した者は、次の生の報いを免れることは出来ないのです。

四禅比丘(15)へ進む

四禅比丘(13)へ戻る

ホームへ