四禅比丘(16)

(しぜんびく)

如来在世に外道(ゲドウ)あり、論力(ロンリキ)と名づく。自ら謂(オモ)へり、論議 与(トモ)に等しき者無く、其の力最大なりと。故に論力と云ふ。

如来(釈尊)が世に在りし時に、論力という名の外道がいた。その外道は、自ら論議することに於て同等の者は無く、その力は最も勝ると思っていたので、論力と名乗っていたのである。

五百梨昌(リショウ)の募(ボ)を受けて、五百の明難を撰(セン)し、来って世尊を難ぜんとして、仏所に来至(ライシ)し、仏に問いたてまつるに云(イ)はく、
「一究竟道
(イチ クキョウドウ)とやせん、衆多(シュタ)究竟道とやせん。」
仏 言
(ノタマ)はく、「唯(タダ)一究竟道なり。」

論力は、五百人のビシャリ国民の募金を受けて、五百の難問を選び、世尊(釈尊)を非難しようと仏(釈尊)の所にやって来て質問した。
「究極の道は一つですか、それとも多数ありますか。」
仏は答えて、「究極の道は唯一つです。」

論力 言(イ)はく、「我等が諸師は、各(オノオノ)究竟の道有りと説く。外道の中、各(オノオノ)自らを是(ゼ)と謂(オモ)ひ、他人の法を毀訾(キシ)して、互いに相ひ是非するを以ての故に、多道有り。」

論力が言うには、「我等の諸師は、おのおの究極の道があると説いています。外道の中では、おのおの自分の説が正しいと考えて他人の法を謗り、互いに是非し合っているので多くの道があります。」

世尊 其(ソ)の時、已(スデ)に鹿頭(ロクトウ)を化(ケ)し、無学果(ムガクカ)を成じて、仏辺に在りて立つ。

世尊(釈尊)はその時、すでに鹿頭を教化し、鹿頭は阿羅漢の悟りを得て仏(釈尊)のそばに立っていた。

仏 論力に問ふ、「衆多の道の中、誰をか第一と為(ナ)す。」
論力 云はく、「鹿頭 第一なり。」
仏 言
(ノタマ)はく、「其れ若(モ)し第一ならば、云何(イカン)ぞ其の道を捨てて、我が弟子となり、我が道中に入るや。」
論力 見已
(ミオワ)りて、慙愧(ザンキ)し低頭(テイヅ)して、帰依入道(キエ ニュウドウ)す。

仏は論力に尋ねた、「その多くの道の中では、誰が一番勝れていますか。」
論力が言うには、「鹿頭が一番勝れています。」
仏が言うには、「もし鹿頭が一番勝れているのなら、どうして鹿頭はその道を捨てて私の弟子となり、私の道の中に入ったのでしょうか。」
その時論力は、鹿頭の姿を見て自らを恥じて頭を垂れた。そして仏に帰依し仏道に入った。

是の時、仏 義品(ギホン)の偈(ゲ)を説いて言(ノタマ)はく、
「各各
(オノオノ)究竟と謂ひて、而(シカ)も各(オノオノ)自ら愛著(アイジャク)し、各(オノオノ)自らを是(ゼ)として他を非(ヒ)とす、是れ皆 究竟に非ず。
是の人 論衆
(ロンシュ)に入りて、義理を辨明(ベンメイ)する時、各各(オノオノ)相ひ是非し、勝負して憂喜(ウキ)を懐(イダ)く。
勝者は慢坑
(マンキョウ)に堕(ダ)し、負者(フシャ)は憂獄(ウゴク)に堕す。
是の故に有智
(ウチ)の者は、此の二法に堕せず。」

「論力、汝 当(マサ)に知るべし、我が諸の弟子の法は、虚も無く 亦(マタ)実も無し。
汝 何
(イズ)れの所をか求めんと欲(オモ)ふ。
汝 我が論を壊せんと欲はば、終
(ツイ)に已(スデ)に此(コ)の処(コトワリ)無し。
一切智 明らめ難し、還って是れ自ら毀壊
(キエ)せん。」

この時、仏は義品経の詩句を論力に説いた。
「おのおのが究極と考えて、そしておのおの自ら愛著し、おのおの自分が正しく他を誤りとするならば、これは皆究極ではない。
この人たちは、論議の人々の中で道理の是非を論じる時、おのおの互いに是非し合ってその勝負に一喜一憂する。
勝者は慢心におちいり、敗者は憂いの地獄に沈む。
このために智慧ある者は、この勝ち負けの二法に堕ちることはない。」

「論力よ、おまえは知らなければならない、私の弟子たちの法は、無いとも言わず、又有るとも言わないのである。
おまえは何を求めようとしているのか。おまえが私の論を破ろうとしても、もはやこの勝ち負けというものは無いのである。
一切を知る智慧は明らかにし難い。勝ち負けを争えば、かえって自分を壊してしまうことだろう。」と。

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