四禅比丘(8)

(しぜんびく)

  かくのごとく、僻計(ヘキケイ)生見(ショウケン)のともがらのみおほし、ただ智円(チエン)、正受(ショウジュ)のみにはあらず。このともがらは、四禅をえて四果とおもはんよりも、そのあやまりふかし。謗仏(ボウブツ)、謗法(ボウホウ)、謗僧(ボウソウ)なるべし。

  大宋国には、このような僻見や我見の出家者ばかり大勢いて、ただ智円や正受だけのことではないのです。この者たちは、四禅(第四の禅定)を得て四果(阿羅漢)を得たと思う者よりも、その誤りは深く、仏陀を謗り、仏法を謗り、僧団を謗ることと同じなのです。

すでに撥無解脱(ハツム ゲダツ)なり、撥無三世(ハツム サンゼ)なり、撥無因果(ハツム インガ)なり、莾莾蕩蕩招殃禍(モウモウ トウトウ ショウ オウカ)うたがひなし。三宝(サンボウ)、四諦(シタイ)、四沙門(シシャモン)なしとおもひしともがらにひとし。

このような考えは、もはや解脱を否定し、過去 現在 未来の三世を否定し、因果の道理を否定しているのであって、限りなく多くの災いを招くに違いありません。これは仏法僧の三宝や苦集滅道の四諦(四つの真理)、聖者の四沙門(四種の出家)などは無いと思う者たちと同じなのです。

仏法いまだその要 見性(ケンショウ)にあらず。七仏、西天(サイテン)二十八祖、いづれのところにか仏法ただ見性のみなりとある。

また仏法は今まで、その要旨が見性(自己の本性を見ること)であったことはありません。釈尊までの過去七仏や、その法を伝えたインドの二十八人の祖師の中で、いったい誰が、仏法とはただ見性だけである、と説いたでしょうか。

六祖壇経(ロクソ ダンキョウ)に見性の言(ゴン)あり、かの書これ偽書(ギショ)なり。附法蔵(フホウゾウ)の書にあらず、曹谿(ソウケイ)の言句(ゴンク)にあらず、仏祖の児孫、またく依用(エヨウ)せざる書なり。正受、智円、いまだ仏法の一隅(イチグウ)をしらざるによりて、一鼎三足(イッテイ サンソク)の邪計(ジャケイ)をなす。

六祖壇経に見性という言葉がありますが、この書は偽書です。正法を伝える書ではないし、曹谿(六祖慧能)の言葉でもありません。仏祖の児孫の全く使用しない書です。正受や智円は、まだ仏法の一隅さえ知らないので、仏教と儒教と道教を鼎の三本の足に例えるという誤った考えをするのです。

  古徳 云(イ)はく、
「老子
(ロウシ)荘子(ソウジ)は、尚(ナホ)自ら未だ小乗の能著所著(ノウジャク ショジャク)、能破所破(ノウハ ショハ)を識(シ)らず。
(イワ)んや大乗中の若著若破(ニャクジャク ニャクハ)をや。是の故に仏法と少しも同じからず。
(シカ)れば世の愚者は名相(ミョウソウ)に迷ひ、濫禅(ランゼン)の者は正理(ショウリ)に惑(マド)ひ、
道徳、逍遥
(ショウヨウ)の名を将(モッ)て仏法解脱の説に斉(ヒト)しめんと欲(オモ)ふ。豈(ア)に得(ウ)べけんや。」

  古聖の言うことには、
「老子や荘子は、まだ小乗の教えである執著を取り除くことさえ知らない。
ましてや大乗の教えの中の、執著に捕らわれないことなど知らないのである。このために、老子や荘子は仏法と少しも同じではない。
このように、世の愚者は仏法の教学的名目と法相に迷い、誤った禅定の者は正しい道理に惑って、
老子の道徳経や荘子の逍遥遊の文字を、仏法の解脱の説と同様なものとしたがるのである。
どうしてそんなことがあり得ようか。」と。

  むかしより、名相にまどふもの、正理をしらざるともがら、仏法をもて荘子、老子にひとしむるなり。
いささかも仏法の稽古
(ケイコ)あるともがら、むかしより荘子、老子をおもくする一人なし。

  昔から、教学的名目と法相に惑う者や、正しい道理を知らない者たちは、仏法を荘子や老子と同様なものと考えるのです。
ほんの少しでも仏法を学んだ者であれば、昔から荘子や老子を重んじるような人は、誰一人いないのです。

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