即心是仏(2)

昭昭霊霊(ショウショウ レイレイ)としてある、これを覚者智者の性(ショウ)といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称す。自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。

この明白霊妙にして存在する霊知のことを、目覚めた人の本性、智慧ある人の本性と言う。これを仏とも言い、悟りとも名付ける。自他同じく具えていて、、迷いにも悟りにも通暁している。

万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫(リャッコウ)に常住なり。

あらゆる物事や環境が、どうであろうとも、この霊知は環境に付き従わず、物と同じではなく、永遠に変わることなく存在するものである。

いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば真実といひぬべし。本性(ホンショウ)より縁起(エンギ)せるゆゑには実法なり。たとひしかありとも、霊知のごとくに、常住ならず、存没(ゾンモツ)するがゆゑに。

我々が今、目の当たりにしている日常の世界も、霊知によるものなので、真実と言うことが出来る。この本性から起ったものであるから真実の法である。しかし真実ではあっても霊知のように不変のものではない。それらには存亡があるからである。

明暗にかかはれず、霊知するがゆえに、これを霊知といふ。また真我と称し、覚元(カクゲン)といひ、本性と称し、本体と称す。

霊知は、物事に明るい暗いに関係なく、霊妙に知ることが出来るから、これを霊知と言うのである。また真我と名づけ、悟りの根元と言い、本性と名づけ、本体と名づけるのである。

かくのごとくの本性をさとるを、常住にかへりぬるといひ、帰真の大士(ダイシ)といふ。

このような本性を悟ることを、永遠の存在に帰ると言い、また真性に帰る菩薩と言うのである。

これよりのちは、さらに生死(ショウジ)に流転(ルデン)せず、不生不滅(フショウ フメツ)の性海(ショウカイ)に証入するなり。このほかは真実にあらず。

これから後は、更に生死の苦界に輪廻することもなく、生じることも滅することも無い本性の大海に悟入するのである。この本性以外は真実ではない。

この性あらはさざるほど、三界六道は競起するといふなり。これすなはち先尼外道(センニ ゲドウ)が見(ケン)なり。

この本性を現さないうちは、この世の苦悩は次々とおこるのであると。これが先尼という外道の見解です。

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