即心是仏(4)

彼が云く、我が此の身中に一の神性(シンショウ)有り。此の性(ショウ)(ヨ)く痛癢(ツウヨウ)を知り、身の壊(エ)する時、神(シン)は則ち出で去る、舎(イエ)の焼かれて舎主(シャシュ) 出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なりと。

先尼が言うには、「我々のこの身体の中には一つの神性がある。この神性は、よく痛い痒いを知り、身体が死ぬ時には、その神性は出ていく。あたかも家が焼けて、家の主人が出て行くようなものである。この家は無常なものであるが、家の主人は変わることがない。」というのである。

(カク)の如きを審(シン)するに、邪正 辨(ワキマ)うること莫(ナ)し。孰(イズ)れか是(ゼ)と為(セン)や。

このような説を調べてみれば、それが正しいかどうかは論ずるまでもない。どうしてこれが真実と言えようか。

吾れ比(ソノカミ) 遊方(ユホウ)せしに、多く此の色(シキ)を見る。近ごろ尤(モット)も盛んなり。三五百衆を聚却(アツ)めて、目に雲漢(ウンカン)を視て云く、是れ南方の宗旨なりと。

私は以前、諸方の道場を訪れた時に、多くの所でこのような説を見聞きした。近ごろではますます盛んである。その師は三百人から五百人もの修行者を集めて、彼らの前でこれが中国南方の宗旨であると言っていた。

(カ)の壇経(ダンキョウ)を把(ト)って改換(カイカン)し、鄙譚(ヒタン)を添糅(テンジュウ)して、聖意(ショウイ)を削除し、後徒(コウト)を惑乱す。豈(ア)に言教(ゴンキョウ)を成さんや。苦しき哉、吾が宗 喪(ホロ)びたり。

あの六祖の壇経を手に取って改変し、卑俗な話を加えて六祖の意を削り取り、後進の修行者を惑わせているのである。このようなものが、どうして仏祖の教えといえるであろうか。苦々しいことだ。我々の宗旨は滅びてしまったのか。

若し見聞覚知(ケンモン カクチ)を以て、是を仏性(ブッショウ)と為さば、浄名(ジョウミョウ)は応(マサ)に、法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知にして、法を求るに非ず、と云ふべからず。

もし見たり聞いたり考えたり知ったりするものが、仏の本性と言うのなら、維摩居士が「真実の法は、見る聞く考える知るということから離れている。もし見る聞く考える知るということを行えば、これはただ見る聞く考える知ることであって、真実の法を求めることにはならない。」と言わなかったであろう。

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