大証国師は曹谿古仏(ソウケイ コブツ)の上足(ジョウソク)なり、天上人間の大善知識なり。国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑(キカン)とすべし。先尼外道(センニ ゲドウ)が見処(ケンジョ)としりてしたがふことなかれ。
大証国師(南陽慧忠和尚)は、曹谿の大鑑慧能禅師(ダイカン エノウ ゼンジ)の高弟であり、天上界人間界の優れた師です。修行者は、国師の説く教えを明らかにして、修行の手本としなさい。この説は先尼外道の見解と知り、従ってはなりません。
近代大宋国に諸山の主人とあるやから国師のごとくなるは、あるべからず。むかしより国師にひとしかるべき知識、いまだかつて出世せず。
近頃の大宋国で、諸寺の主人となっている者の中には、国師のような優れた人物はおりません。昔から国師と肩を並べるほどの師は、未だ世に現れなかったのです。
しかあるに世人あやまりておもはく臨済(リンザイ)徳山(トクサン)も国師にひとしかるべしと。かくのごとくのやからのみおほし、あはれむべし明眼の師なきことを。
しかし、世の人が誤って思うことには、臨済和尚や徳山和尚も国師と肩を並べる人物であろうと、このように思う者ばかりです。正法の眼の明るい師がいないことを悲しみなさい。
いはゆる仏祖の保任(ホニン)する即心是仏は、外道二乗ゆめにもみるところにあらず。唯仏祖与仏祖(ユイ ブッソヨブッソ)のみ即心是仏しきたり、究尽(グウジン)しきたる聞著(モンジャク)あり、行取(ギョウシュ)あり、証著(ショウジャク)あり。
いわゆる仏祖の護持している即心是仏(この心がそのまま仏である)は、外道や小乗の修行者には、夢にも見ることが出来ないものです。これはもっぱら、仏祖だけが即心是仏を明らかにしてきたのであり、究め尽くしてきたと言われるのであり、行じてきたのであり、悟ってきたのです。
仏百草を拈却(ネンキャク)しきたり、打失(ダシツ)しきたる。しかあれども、丈六(ジョウロク)の金身(コンジン)に説似(セツジ)せず。
釈尊は、煩悩の百草を取り除き、無くされました。しかし、仏のことを一丈六尺の金色の身とは説きませんでした。
即公案あり、見成(ゲンジョウ)を相待(ソウタイ)せず、敗壊(ハイエ)を廻避せず。
今、仏道の課題があります。悟りを待たず、無常を避けないことです。
是三界あり、退出にあらず、唯心(ユイシン)にあらず。
ここに世間があります。この世間を抜け出るのではありません。世間はすべて心の姿というわけではありません。
心牆壁(シンショウヘキ)あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。
心に壁があります。その壁は未だ泥水で汚れたことは無く、未だ煩悩をつくったこともありません。
あるいは即心是仏を参究し、心即是仏を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し、是仏心即を参究す。
あるいは即心是仏を究明し、心即是仏を究明し、仏即是心を究明し、即心仏是を究明し、是仏心即を究明するのです。
かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙(コ)して即心是仏に正伝(ショウデン)するなり。かくのごとく正伝して今日にいたれり。
このように究明することが、まさに即心是仏であり、即心是仏を提起して、即心是仏に正しく伝えることなのです。即心是仏は、このように正しく伝えられて今日に至ったのです。